甘口辛口

変化する自己イメージ(2)

2012/11/14(水) 午後 7:09
変化する自己イメージ(2)


私は学生時代から、「真理は力を用いないでも、自己を明らかにして行く」と信じていた。巨視的な観点から眺めると、人類史とは人々が蒙昧から解き放たれ、理性に従って生きるようになって行くことの歴史だと信じていたのだ。

こういう考えに到達したのは、中学を出て上京し、上野図書館に通って反戦的な本を読んでいた頃のことだった。「単純な生活」(自著)から、そのあたりの部分を引用してみよう。

<上野図書館に通うようになって二ヶ月ほどした頃、翻訳書で「力をもって真理を強制する必要はない。真理は自らを実現するために力を必要としない唯一の存在である」という言葉を読んだ。

私はこの言葉から深い印象を受けた。啓示といっていいような解放感を感じたのである。私は机上に本をひろげたまま、津波のように胸にこみ上げてくる解放感を味っていた。「自己実現する真理」という観念が、ポーリングの錐のように意識の底に穴をあけたのだ。そしたら私がこれまで知らずに育てて来たものが試掘中の原油のように自噴して来たのである。中学三年以来、私が意識下でひそかに形成して来たのは頁理に対する信頼感だったのだ。私はこの瞬間に私の裏側にいたもう一人の自分と対面したのである。

・・・・・ 世界は真理実現の舞台なのである。諸民族、諸国家の多様な力がぶつかる十字路である世界は、勇理以外の何物も実現しない。私は瞼の裏に、広大な世界の隅々まで真理の光が行き及んでいる光景をまざまざと見た。幕を切って落したように私の目の前に新しい世界が出現した。

私が帰途についたのは、夕暮れまでに未だ少し間のある時刻だった。先程のよろこびは未だ余熱のように身内に残っていた。公園の坂をおりて公園入口のあたりまで来ると、ずっと前方の上野広小路交差点を通行人がかたまって横断する光景が見えはじめた。交差点のへんには斜陽が当っているが、その向うの道路は日蔭の中にある。坂の中途から、広小路を横切る豆粒のような通行人を眺める感じと、人間の歴史を悟性の高みから観望する感じが入りまじり、私は瞬間的に超越の感覚を味った。それは上京してから、私が知った最も幸福な瞬間であった>。

こういう考えを持つようになった人間は、人類の未来にたいして楽観的になる傾向があり、社会革命よりも、まず、人間革命が必要だと主張しはじめる。すべての人間は、生まれながらに叡智を持っているのだから、埋もれている叡智を掘り起こしてやれば、自ずと理性に即した生き方をするようになり、革命などによらなくても理想的な社会が生み出される・・・・と考えるようになるのだ。

人はすべて叡智を持つという考え方は、上野図書館での回悟以後に接するようになった仏教やキリスト教もまた強調するところだった。

仏教関係では、江戸時代の禅僧・盤珪が「不生の仏性(仏心)」というフレーズを合い言葉に人間叡智の先天的な実在について説いている。仏性は、生誕時から人に与えられているもので、われわれは修行して仏性を新たに生み出す必要はないから「不生」の仏性というのである。キリスト教でも、すべての人間が精霊に感応する「魂」を持っていると説き、それを前提にして、三位一体論を構築している。

だが、人は生まれながらに仏性や魂、あるいは叡智と呼ばれるものを持ちながら、相も変わらず、自称「愛国者」の野蛮な暴論に拍手喝采を送っている。

竹島問題、尖閣諸島問題について、関係国のトップたちは自称「愛国者」の暴走を憂慮して事前に協定や密約を結んでいる。それによると、各国首脳部は、相手国が問題の地域を自国領と主張することを黙認するだけでなく、その主張を対立国の国民が非難することをも黙認すると取り決めている。つまり、相手国が何を言おうと勝手に言わせておくこと、互いに見ざる聞かざるで相手国の言動を放置しておくことで意見の一致を見ていたのである。

ところが、前都知事の石原慎太郎は、日本政府が相手国の言動を放置していることを許し難いとして、尖閣諸島を都が買収すると言いだしたから、日本政府は慌てて尖閣諸島を買収した。石原が島を買い占めたら、島に様々な構造物を作り、役人などを常駐させるなどして、中国を激怒させることは明らかだったからだ。

中国政府は、日本政府が島を買収したことだけでもすでに激怒して、民衆の反日暴動を放置するだけでなく、むしろそそのかした。中国側の反日暴動を引き起こした責任は、石原前都知事にあることは明らかだったが、石原はいい気なものだった。中国に対しては、「寄らば斬るぞ」の構えで臨めと放言しているのである(「文藝春秋」11月号)

では、中国と戦争になったらどうなるか。石原は、こういうのだ。

<シナが居丈高に「武力行使も辞さない」と言い募り、軍艦まで持ち出して攻めてきても、日本は恐れることなどない。「寄らば斬る」の構えをしっかり見せることだ。

・・・・シナが自慢するウクライナ型航空母艦などは出力が足りなくて十時間しか走れない欠陥品だ。一事が万事で、シナの海軍なるものは張り子の虎に過ぎない。空軍力でも装備面、訓練時間ともに日本がシナを圧倒しており、現在、通常兵器の戦闘で日本がシナに負けることは考えられない>

石原慎太郎の放言は、太平洋戦争前の愛国者たちのアジ演説にそっくりなのだ。彼らは帝国海軍の偉容を誇り、アメリカ海軍など鎧袖一触で蹴散らし、もし日米戦争になったら日露戦争時の日本海海戦を再現することになると誇らかに予言していた。

小学生のような強がりを口にするのは、石原だけではなかった。11月9日の新聞を開いたら右翼系雑誌の広告が載っていた。「日中開戦全予測」という特集を組んで、日本の圧倒的勝利を予言する内容を盛り込んでいるらしいのである。太平洋戦争が始まる前には、新聞・雑誌にこの手の著書や雑誌の広告がずらずら並んでいたものだった。

私はホームページやブログで、「愛国者が、国を滅ぼす」という記事を何度書いてきたか知れない。だが、自称「愛国者」の数は増えて行く一方なのだ。こうした現実に対して、人間性を信頼し、人類の未来を楽観して来た人間は、どうしたらいいのだろうか。精神の安定を保つために、何をすべきだろうか。

ここで思い出すのは、仏教もキリスト教も、人間の叡智について留保条件をつけていることだ。釈迦がいかに熱心に仏法を説いても聞く耳を持たず、我欲をあさり続ける「餓鬼」が一定数いたのである。仏伝によれば、釈迦もついに諦めて、こういう人々を溜息と共に「縁なき衆生」と評したという。

キリスト教では、公然と悪魔の存在が語られている。悪魔は、神を信じているグループの中から生まれるとされ、悲観論の度合いは仏教より遙かに深いのである。

楽観論が揺らぎ始めたとき、救いは、一つしかない。

世の趨勢をよりリアルに眺めると同時に、釈迦が「縁なき衆生」と呼び、イエスが「悪魔」と呼んだ法外の人間とは、自分自身のことではないかと、疑ってみることなのだ。社会についても自己についても、すべてか無かという見方をすることをやめ、原理主義者という自己イメージを捨てることなのだ。