甘口辛口

二世代別居という選択

2013/2/14(木) 午後 5:53
二世代別居という選択

前回にひき続き、信濃毎日新聞掲載のもう一編の投書を紹介したい。その投書というのは、今日の同紙に掲載されていたもので、実をいうと、私は、先刻、それを読みおわったばかりなのだ(題名は、「毎朝の母の世話」)。

<「おいちゃん、寒いのに朝早くからいろいろやってもらって悪いね」
毎朝6時すぎに飼い犬を連れ、一人暮らしの母の家へ行く。
湯を沸かし仏壇に線香を立て、トイレや押し入れの中を、汚れたおむつを探す。薬を飲ませた後、洗った入れ歯を持ってきてやり、朝食のパンとなる。ベッドで食べてしまうことが多く、シーツの上がごみだらけの日が多い。

私の名前は覚えているが、顔と一致しなくなって、数年前からおいちゃんになった。妻はおばちゃんだ。おいちゃん、おばちゃんがなんで毎日世話をしてくれるのかには考えが及ばないようだ。

認知症暦15年を越え、数も分からない。自分の年齢も忘れたので、大きな紙に名前、年齢や生年月日などを書いて張った。

「やだ93にもなるだかい。じやあ、おいちゃんは80くらいになるだかい」と聞いてくる。以前は横で妻が「息子だもの、そんなになる訳ないじゃん」と言っていたが、それもやめた。おいちゃんでいい、元気でいてくれれば。>

これを読み終わったときに、ちらっと頭に疑問符が浮かんだ。この文章の末尾には、(デザイナー・72)とあるから、投稿者は自由業者として自宅で仕事をしているらしい。としたら、一人暮らしをしている母を自宅に引き取るなり、あるいは夫婦で母の家に移るなりして、「二世代同居」の体制をとればよいではないか、母は認知症を患っているというのだから。

しかし、待てよと考え直した。

常識的には、認知症の母を自宅で面倒を見るべきだということになるが、本当にそれでいいのだろうか。母は認知症になってから15年を越えているけれども、まだ、100パーセント生活無能力者になっている訳ではない。おむつはしているものの、それを使ったあとは、自分で取り外してトイレや押入に隠しておくだけの才覚はあるのだ。

この程度の才覚があれば、母親にとって他人と同居するよりは「自宅で一人暮らし」という生活形態を守っていた方が気楽かもしれない。面倒を見るほうも、認知症の病人と同じ家で四六時中暮らすことになれば、生活が激変し、息が詰まるような気持ちになることも多いに違いない。だから、息子は便利屋になった心算、その妻は通いの家政婦になった心算で、実家にこまめに顔を出すという方式の方が具合がいいかもしれない。

結婚したら、子供夫婦は親と同居しないで、「スープが冷めない距離」で暮らした方がよいとされている。このやり方を老年になってからも続けているのが、今日の投書者夫婦なのである。投稿の文面からすると、この方式は、面倒を見る側・面倒を見られる側の双方に満足感を与えているように見える。

母親が娘の生活に干渉しすぎて母と娘の関係が悪化するのも、親世代と子世代が同居して世代間トラブルを引き起こすのも、根は一つである。個人が「独立自尊」の状態に到達していないからなのだ。人が内面的に独立していれば、他者の尊厳を尊重し、限度を超えて相手のプライバシーに踏み込むようなことをしなくなる。

毎朝実家に立ち寄って、汚れたおむつを処理しているこのデザイナーは、恐らく「独立自尊」型の人間に違いない。この投稿は、同じような立場にある年配者に裨益するところが多いと思う。