私は、表自己に蓄えられた過剰なエネルギーが、逆噴射して裏自己の世界を照らし出すというメカニズムについて、あれこれ思案したものだった。そして、その結果を本にしたりしたのだが、言いたいことはそうした細部にあるのではなく、以下に述べるようなことなのだ。
──聖書を読んでいると、目の前で世界が逆転するような気持ちになる。
苦しみの多い人生を送る人々にとって、現世は暗い夜の世界に見えるかも知れない。そんな人たちには、富者・権力者・学者などが集まって互いの栄光をたたえあっている上流社会は、光り輝く宮殿に見えるだろう。そして自分たちは、暗い戸外に取り残され、この華やかな光景を羨望の目で眺める下層民としてイメージされる。
だが、イエスはこうした映像を神の愛を持ってくることで逆転させるのだ。
陽光は戸外の民衆を暖かく照らしているのである。神の愛という陽光に照らされた世界にあっては、宮殿は温かな太陽の光の届かない牢獄に変わり、宮殿内のエリートたちは薄暗い人工照明の下でうごめく餓鬼の群れとしてイメージされる。
詩人のリルケは、このような価値転換を写真のネガフィルムにたとえている。ネガフィルムには、本来暗い部分が明るく写り、明るいところが暗くなっている。つまり、世俗的な勝者である富者・権力者・学者などが輝かしく写り、一般庶民は暗く写っているのだが、これを陽転させて本来の姿に戻してみれば、誇るべきものを持たない謙遜な庶民が幸いに満ちあふれ、傲慢な特権層が泥沼に沈んでいるのである。
老子もこれと同じような見方をしていた。
足ることを知って単純な生を続けていたら、人は満ち足りた人生を送ることができる。ところが、凡俗の世界を抜け出て突出する存在になることを目指すと、世俗的成功と引き替えにいびつに歪んだバケモノ人間になり、結局、自滅してしまう。こう考えて老子は、「人の上に立とうとせず、自分のために使うエネルギーをセーブして、人々に分かち与えよ(我に三宝あり。一に慈、二に倹、三に敢えて天下の先たらず)」と説くのだ。
イエスや老子の考え方は、「勝ち組」から見れば敗残者の負け惜しみに映るかもしれない。しかし、「不思議な体験」によって事実唯真の世界を目の当たりにすると、イエス・老子が提示する表裏逆転の現世像が疑いないものとして信じられるようになるのだ。そして、彼等の描いて見せたような、支配する者も支配される者もない、万人平等の社会が実現することを願うようになる。
老子は「勝ち組」を自滅させる構造が、現世の内部に仕込まれていることを指摘する。そして、早くそれに気づいて、タオの敷いた「道」に立ち戻ることを「早服」と呼んでいる。「老子的アナーキズム」の目標は、人々にこの「早服」の必要性を気づかせ、「勝ち組」も「負け組」もない社会を作ることなのである。
だが、それには長い時間がかかる。
ノーベル賞を取った湯川秀樹が妻と共に渡米したとき、アインシュタインが二人に会いたいと言って訪ねてきた。そして、ヒトラーが原爆を先に手に入れるのを恐れ、米大統領ル−ズベルトに手紙を書いて核兵器開発を勧めたことを打ち明けた後に、湯川夫妻の手を握って、「広島、長崎の惨禍を知り、深く悔いている。罪のない日本人を殺して申しわけない」といって涙をぽろぽろ流して謝罪したという。
湯川夫人スミによると、「このままでは人類が滅びてしまうかもしれん。そうならんようにどうすればよかろうか。秀樹さんとアインシュタインが相談して世界連邦が一番いいとなった」という(朝日新聞による)。
アインシュタインと湯川秀樹がいくら頑張っても、世界連邦が実現されるのは遠い遠い先のことに過ぎないだろう。だが、こういうことを夢見るのが人間というものであり、そしてこのような夢を抱き続けることでわれわれは堕落しないで生きられるのだ。「老子的アナーキズム」も「聖書的アナーキズム」も、人間が夢見ることを続ける限り、何時かは実現すると信じたいのである。