甘口辛口

聖書的アナーキズム(2)

2006/9/13(水) 午後 0:34
本田哲郎は1942年に台湾で生まれたが、日本が戦争に敗れたため両親の故郷の奄美大島に引き揚げてきた。引き揚げて分かったことは、父親には7人の兄弟がいて、そこに何故か7人位ずつの子供がいることだった。つまり、本田のイトコが40数人もいたのである。奄美大島には昔からクリスチャンが多く、一族も皆カトリックの信者だったから、本田は何の違和感もなく教会に通うようになった。

田舎のこととて、子供達はおじさんやおばさんの家を自分の家のように思って遊びに行った。そして、飯時になれば当然のようにその家でイトコたちと一緒にご飯を食べた。何処の家に行っても、大人から聞かされるのは、「クリスチャンらしくしなさい」ということだった。だから、本田は子供心に、「まわりからさすがにクリスチャンの子だと褒められるようになろう」と思うようになった。

彼は、学校に行けば友達の喧嘩を仲裁をし、教会に行けば神父の望むような受け答えをする模範的な子供になった。そんな自分を本田は「よい子症候群」にかかっていたと述懐する。

「そういう育ち方をしたわけですよ」と本田は語る。「それは別に悪いことではないのではないかと思われるかもしれませんけれども、よい子というのは、実は、裏を返すと、顔色を上手に見る子ということです。

そして、まわりからよい子を期待されると意識せずによい子を演じてしまう。要するにわたしは心理学者がいう、いわゆる「よい子症候群」にかかっていたに違いありません。自分自身の本音の部分をいつも抑えてしまう。そして、まわりに合わせよう、合わせようとする。そうすると、まわりの人たちは、『この子はすなおだ。穏やかで、判断力もある。なかなか立派じゃないか』と見てくれる。

だけど、自分自身の中ではいつも、どう期待に応えようかと、自分がどこかへいなくなってしまうわけです。私はそんな子でした」(「釜ケ崎と福音」)

模範生気質がすっかり身に付いた本田は、反抗期を一度も経験することなく高校に進み、それからカトリック系の上智大学に入学する。そして、「ひとからよく思われたい、さすがと一目置かれたい」と願い続けながら大学を卒業するのだ。

大学卒業後、カトリックの修道会である「フランシスコ会」に入会した彼は、相変わらず「人からよく思われたい、さすがといわれたい」と思い続け、「よい子症候群」に一段と磨きをかける。大学を出てからも彼の研鑽は続き、上智大学神学部修士課程を終了後、ローマ教皇庁立聖書研究所に入学するのである。

本田の頭にあるのは、教授達に認められたい、チャンスがあったら抜擢して貰いたいということばかりだった。だから、ローマ教皇庁の研究所に派遣されることが決まったときなど、ヤッターと踊り上がるほどうれしかった。

「しかも仲間の同級生などにはそぶりも見せず、自分だけはくそえんでいるようないやらしい自分でした。そんな調子で神学校を卒業し、わたしは神父になりました。

神父といえば、それなりの宗教家のはずです。その宗教家の一人である自分が、何とまあ、人の思惑ばかり、どんなふうに見てもらえるかといった、そんなことを気にしながら、自然と陽のあたるところを選んでいる。そんな神父だったわけです」(「釜ケ崎と福音」)

帰国した本田は、神父として信者に説教する立場になる。説教が終わると信者たちが寄ってきて「お説教はとてもよかったですよ」「目からウロコでした」と褒めてくれる。すると、彼はうれしくて仕方がない。次にはもっと褒められるような話をしよう、聴衆を仰天させるような説教をしようと思う。

信者から尊敬される優秀な神父になるためには、それ相応の努力が欠かせない。本田神父は懸命に努力を続け、その努力の甲斐があって、彼は選挙によってフランシスコ会日本支部の管区長に選ばれるのである。

管区長になったら、フランシスコ会に所属する220名の神父・修道士を指導監督しなければならない。本田は、北海道から沖縄まで全国に展開する教会や福祉施設を泊まりがけで視察して歩いたが、最も強い印象を受けたのが釜ケ崎の教会施設だった。彼は管区長としての6年間の任期を終えると、志願して釜ケ崎に赴任するのである。

管区長まで上りつめた本田が、一転して釜ケ崎に赴任したのはなぜか。何が彼の出世主義的な人生コースを変えさせたのか。この本の書かれたポイントもそこにあるような気がするのに、彼はこの点について何も語ろうとしないのである。そこで私は、その理由について次のように考える。
(つづく)