教区長に選ばれた本田神父は、内心で一種の恐怖に襲われていた。周囲の目ばかり気にしている世にも卑小な自分が、日本における「フランシスコ会」の責任者になっていいものだろうか。自分は子供の頃から引きずってきた「よい子症候群」から、何としても解放されなければならないのではないか。
彼は祈りによって自分のイヤな性格から抜け出そうとして、必死になって祈った。一年、二年、いくら懸命に祈っても効果はなかった。
自己の性格改造に取り組むようになってから、本田はキリスト教の信者の中にも自分と同型の人間が数多くいることに気づくようになる。本田は口を緘して語ろうとしないけれども、彼はキリスト教界全体が自分と同じ病を病んでいるのではないかと思うようになったのだ。特に、保守的で富裕な信者の多いカトリック教徒には、貧者や弱者への慈善を誇示する偽善的な信者が目立つように思われた。
自分にもキリスト教界にも嫌悪を感じるようになった彼は、次第に上品で偽善的な教会に背を向けて、それとは反対の世界に目を向けるようになった。彼は教会視察のため大阪の西成地区に赴いた際、「フランシスコ会」の経営する福祉施設「ふるさとの家」に泊まりこんで、自ら奉仕活動に参加するようなこともはじめた。
本田は釜ケ崎の印象を次のように書いている。
「最寄りの駅、環状線の新今宮で降りて、地区内に入ったとたん、今思うと本当に恥ずかしいんですが、しようじきいって、こわいという、そのひとことでした。ひたすらこわかった。
階段をおりて駅の下に行くと、そこにはどろどろの毛布や布団が敷きっ放しで、カップラーメンのひからびた食い残し、あるいはワンカップ酒のからからに乾いた空ビン、焼酎の二合瓶などがころがっている。そこに、髪ぼうぼう、つめも伸びて、首筋はあかだらけの人が何人も横たわっている。はいている長靴は、かかとがすり減って穴があいていたり、ときどき小指が出ていたり、そんな状態でした」(「釜ケ崎と福音」)
夜の十一時過ぎ、奉仕活動に参加した本田は、信者達と一緒に路上で寝ている浮浪者にリヤカーに積んだ古毛布と古着を配って歩いた。彼がぐっすり寝込んでいる浮浪者に勇を鼓して声をかけると、相手は目を覚まして顔をねじ曲げてきた。「あっ、殴られる」と思って反射的に身を引いた本田に、男はやさしい笑顔を見せて、「兄ちゃん、すまんな、おおきに」と礼を言ってくれた。
東京に帰任し管区長としての仕事に戻った本田は、以前に比べてあまり人の目が気にならないようになっている自分を発見する。深夜にホームレスの浮浪者と親しく口をきいただけで、「よい子」の重しがとれ、気持ちが解放されて楽になったのだ。
そこで次は東京の山谷に行って、三日間、日雇いの仕事をしてみた。こうしたことをしているうちに、彼は、「神はいちばん貧しい者を通して、すべての人を救う力を発揮するのではないか」と考えるようになる。相手が貧弱な人間だからこそ、神は自分の力を彼に託し、弱い者達が彼と共に立ち上がって、まわりの人々を解放して行くように導くのではなかろうか。
強い者が弱い者を助けるのではない。自らの弱さを自覚した者のみが、弱者の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りを共有し共感することが出来る。そして、この共感こそが、弱者を励まし、弱者を解放する力を持つのだ。
本田神父は教区長の任期を終えてから、釜ケ崎に赴任し現在に至っている。
彼は神父でありながら、教会の信者を増やそうとは思っていない。それどころか、彼のところに洗礼を受けたいといってくる者があると、「洗礼を受けない方がいいんじゃない? 信者みたいなもん、ならん方がいいよ」というのである。
彼がこんな態度を取るようになったのは、洗礼を受けたホームレスが同じ仕事仲間、野宿仲間を、「あいつら」といって見下げるようになるからだった。彼等は、洗礼を受けて信者になったことで、仲間より一段偉くなったような気になるらしかった。
本田神父は、現在、「ふるさとの家」で散髪の奉仕をしている。週に4回、一回に30人くらいの散髪をしているから、月に500人の頭を刈っていることになる。こうした彼の活動を背後から支えているのは、イエスに対する彼の独特な見方だった。
イエスは頭に光輪を宿し、真っ白な衣を着て高みから民衆に救いを説くような人物ではない。彼も又食うにこと欠くような貧乏人であり、周囲から侮蔑の目で見られていた男だったのだ──
(つづく)