ローマ教皇庁の聖書研究所で本格的に聖書を研究してきた本田神父は、新約・旧約の聖書をギリシャ語・ラテン語で読むようになっていた。原典で読む聖書は、既成観念とは全く異なるイエス像を本田に伝えてくるのだ。
聖書の中の母マリアは律法に背いて私生児をはらんだ罪人と見なされていたし、そのマリアを妻としたヨゼフもおきて破りの同類とされ、夫婦揃って社会から指弾されているのである。二人の間に生まれたイエスも、石切職人として社会の底辺で生きるしかなかった。イエスは、「食い意地の張った酒飲み」と呼ばれ、伝道を始めてからは「悪魔つき」として人々から排斥されていたのだ。
弟子達も全員が社会の底辺で生きているグループだった。12使徒のうちの7人までが漁師であり、他に、人から憎まれている徴税人や極右団体のメンバーもいた。こうした浮浪者同様のイエスの一行が、同じく社会の底辺で苦しみ悩む病人や貧者、弱者を訪ね、彼等と悲喜哀歓をともにしていたのである。
イエスは、人から憐れまれる痛み、人から施しを受けるつらさを知っていたから、師父として彼等を上から導こうとはしなかった。彼は彼等の痛みや苦しみに共感し、彼らと一緒になってよろこびの世界に到達しようとしただけだった。そのためには、時に戦うことも辞さなかった。本田は聖書から「戦うイエス」のイメージを取り出している。
イエスに倣い、イエスに従って生きようとしたら、ただ争いを避けて和解の道を探り、専一に愛と平和を求めてはならない。この世には、中立を守ることが不可能なような対立関係がある。差別や抑圧を原因とする対立がそれで、そこには中立というような立場はあり得ないのである。差別され、抑圧されている人々の側に立たない限り、われわれは差別、抑圧する側に立つことになるのだ。
対立関係に眉をひそめ、ただ和解を求める人々は、現状に満足している人々であり、恵まれた生活条件を持っている人々だ。彼等が望む平和は、バランスの平和であり、社会的弱者に忍従を強いる平和なのである。
イエスはけっして双方を少しずつ歩み寄らせるような和解策を取らなかったと、本田はいう。イエスは、行く先々でそれまで隠されてきた分裂と敵対関係を明らかにしたから、既成権力に憎まれて処刑されたのだった。
本田神父は、偽善的な「上層階級」の人々にハッキリと宣言する。
「いくら個人的・私的な生活態度がつつましく、敬虔で、善意に満ちた人であっても、その人が社会の裕福な側、力を持つ側にいるということは、貧しい人たち、力を持たない人たちを抑圧する側にいるということです。
ですから、抑圧する側にいる人は、意識的に立場を超えて抑圧される側と連帯しないかぎり、そのつもりはなくても、貧しく小さくされている人たちを抑圧しつづけているのであり、したがって、その人は真の平和への道をあゆむことはできないのです(マルコ10章17−27節「金持ちは神の国に入れない」)」(「釜ケ崎と福音」)
こうして本田神父は、次第に暴力行為を伴わない社会革命をめざす方向に進んでいく。彼は神父としての立場を乗り越えて、次のように語りかけるのだ。
「世界の人口の半分以上が貧困生活をしいられており、八億の人たちが飢餓状態におかれている。こうした状況は、富と権力をにぎる世界のリーダーたちと、その『おかげで』ゆたかな生活をエンジョイできる裕福な一般市民の無自覚の協力によって、抑圧と搾取、侵略と破壊、復興支援という名の市場拡大が行なわれる結果、生じているのです」(「釜ケ崎と福音」)
本田は、釜ケ崎や山谷に吹き寄せられてくるホームレスや日雇い労働者たちに責任が無いとは言っていない。彼らの中には、怠け者も愚かな者も要領の悪い者もいる。だが、世俗の偏見にとらわれることなく事態を直視すれば、問題は個人の資質にあるのではなく、社会の仕組みそのものにあることが判明するだろう。
現代世界の貧困は、たまたま出現したというものではなく、作り出されたものなのである。社会秩序は、富と権力の恩恵に浴し続けたいと欲する人々によって、意図的に作り出されたものなのだ。───こう断じる本田を聖書的アナーキストと呼んではいけないだろうか。