甘口辛口

祖父の読書

2006/9/24(日) 午後 2:15

私の祖父は職人として青春を過ごし、やがて親方になり、小金を貯めて、家を購入するまでになった。この家は田舎によくある馬鹿でかい代物で、二階だけで部屋数が九つあったといえばその大きさが分かるだろう。しかし、祖父には子供がなかったため、小学校教員をしている養子を貰った。これが私の父である。

祖父は老齢になってから、本を読むようになった。本といっても、父の書架にあった数冊の講談全集であって、講釈師の口演する「大久保彦左衛門」というような講談を速記者が筆記したものなのである。講談全集は枕になるほど厚かったが、漢字には皆ルビがつき、挿絵なども織り込んであるから、小学生でも楽に読める内容になっていた。

毎年、冬になると祖父は、日当たりのいい二階の自室で講談全集を日課のように読んでいる。それで、私は聞いてみた。
「そんなに面白いんかい?」
「年を取るとなあ、本を読んでも端からみんな忘れてしまうんだよ。だから、同じ本をまた最初から読み直すのさ。どうだ、経済的だろ」

祖父は、数冊の講談全集を繰り返し、読み返していたのである。
そしてあの頃の祖父と同じ年齢になったら、私の本の読み方が祖父に似てきたのだ。これまでの私の読書法には偏りがあり、例えば谷崎潤一郎の作品などほとんど読んでいない。こうした読書の空白を埋めようとして、ここ数年、「蓼食う虫」というような本を開いてみるのだが、10ページも読まないうちに先が続かなくなる。

そこで、口直しにと、もっとテンポの早い翻訳ミステリーを読んでみる。だが、老人にとって翻訳物の問題点は、登場人物の名前を直ぐには覚えられないということなのだ。それでは、和製のミステリーはどうかというと、長年外国物を読み慣れた人間の悪い癖で、日本産の推理小説は薄手のような気がしてどうしても読む気になれない。

ある日、ふとトルストイを読み直してみたらどうだろうと思いついたのだった。学生時代には、ドストエフスキーに比べるとトルストイは深みがないような気がしていたが、中年になってから評価が逆転し、トルストイの方を高く買うようになっていた。評価の逆転はトルストイを再読した結果なのではない。学生時代に読んだ折りの後味を比較して、そんな風な気持ちになったのである。

書棚に紛れ込んでいたトルストイの「戦争と平和」を探し出して読んでみる。すると、驚いたことに、前に読んだときから60年近い歳月が過ぎているのに、登場人物の名前を大体覚えているのである。年を取ると、直近の記憶は直ぐなくなるけれども、昔の記憶は消えないといわれる。本の中に出てくる登場人物の名前についても同じことが言えるのだ。アンドレイ公爵、ナターシャ、ピエールなど、主要人物の名前は、すべて消えることなく頭に残っていた。

トルストイを読んでしまったら、次はトーマス・マンにしよう、そして翻訳物にあきたら、大岡昇平を読めばいいなと、急に前方に緑の沃野を望むような気持ちになった。祖父が日向ぼっこしながら講談本を読んでいたように、私も昔愛読した作家を再読していれば、死ぬまでの時間が過ごせるのである。私は希望の灯がひとつともったような気がした。