甘口辛口

宝くじ式社会

2006/10/16(月) 午後 2:39
国連安保理による北朝鮮制裁決議の内容を見ると、北朝鮮への禁輸品目に武器類と並んで「ぜいたく品」があげられている。解説によれば、金正日はぜいたく品を幹部に配ることで自己の政権基盤を固めて来たから、これの禁輸は彼にとって相当な打撃になるだろうという。

この説明は、現代の日本人にはピンとこないかもしれない。幹部だけがぜいたく品を手にしているのを見たら、一般国民の不満が爆発するのではないかと考えるからだ。だが、庶民というものは上層階級の特権を批判する代わりに、自分もがんばって特権階層まで上昇しようと考えるものなのだ。人権思想の徹底していない社会では、とくにそうした傾向が強い。

だから、幹部だけを優遇する処置をとれば、人心の離反を招くどころか、庶民を奮い立たせることになる。宝くじの賞金を高くすれば、くじの購入者が増えるようなものである。明治時代の日本もこうした方法で有能な人材を集め、政権基盤を確かなものにしたのであった。

中野重治は、独特な切り口で森鴎外論を書いている。彼は鴎外の給料を他の作家たちの収入と比較しているのである。

中野は、明治8年に制定された軍人の給料表を引用している。これによると陸軍中将の月給は350円となっている。明治22年に、内閣官報局に就職した二葉亭四迷の月給は30円であった。明治37年になると、二葉亭は「高給をもって朝日新聞社に迎えられ」、100円の月給を貰うようになる。この頃になれば、軍人の月給もかなり上昇し、陸軍中将の月給は、相当な額になっていたと推定される(明治8年以後の給料表は、不明だという)。

日露戦争後、鴎外は陸軍中将相当官の陸軍医務局長になっているから、月給は600円くらいになっていたと思われる。このほかに金鵄勲章の年金700円やら何やら、副収入も多く、鴎外の母親の日記を読めば、その裕福ぶりが知れる。日露戦争がはじまると、鴎外の妻しげは自分の生んだ子供たちをつれて実家に戻り、鴎外邸には母峰子と先妻の生んだ孫の二人だけが残ることになった。鴎外は出征して戦地にあったから、屋敷を訪れるものはほとんどいない。にもかかわらず、母峰子は3人の女中を使い続けているのである。

軍を退いてから、鴎外は帝室博物館長になる。鴎外は館長になってからも、昼飯を焼き芋で済ますという簡素な生活をしていたから、亡くなったときには4人の子供のそれぞれに将来利子だけで暮らして行けるだけの貯金を遺してやっている。

陸軍中将相当官にして、この暮らしぶりである。これが大将だったり、大臣だったりしたら、その生活はさらに人目を引く派手なものだったに違いない。だから全国の秀才たちは、大将・大臣を目指して努力し、大正デモクラシー時代に入っても、「末は博士か大臣か」を目標にがんばったのである。

「民度の低い社会」「貧しい社会」では、出世競争の報酬を高くすればするほど人材が集まり、政権基盤が固まる。日本には、まだこの傾向が残っているらしく、各省庁の高級官僚は退職後の天下り先に不自由しないようである。