年をとらなければ分からないことがある。たとえば、年齢に応じて死の観念が変わっていくというのも、その一つだろう。
人間、40になるまでは死を遠い先の話だと考え、自分の問題として意識することはほとんどない。だが、われわれは40をすぎると、前途に待ち構えている老いや死を、いやおうなく意識するようになる。鋭敏な人間、自己愛の強い人間ほど老死を意識する度合いが強くなり、この恐怖を克服するための方法をあれこれ思案するようになる。
戦前戦後を通して活躍した評論家の亀井勝一郎は、常々、死ぬことなど恐れるに足りないと強調していた。「人は眠ることによって、毎日、死ぬ練習をしているではないか」というのが、その理由だったが、その亀井も死に臨んでかなり激しい生への執着を見せたらしい。亀井が死を恐れて見苦しい態度を見せたとしても、別に恥じるには及ばない。生命体としての人間が、生命に執着するのは、至極当然のことだからだ。
鴎外は死期を悟ると、家族に命じて袴を着用させ、正装したうえで息絶えている。漱石は、いまわの際に、「死にたくない」「死にたくない」と繰り返しながら死んでいった。人それぞれに好きなように死ねばいいので、死に方に立派も醜いもないのである。
三島由紀夫は、自身がいずれ老醜の身になることに、絶望を通り越して怒りを感じていた。彼の壮絶な死には、自らの老いを拒絶する強烈な意志が込められていた。自己の老醜を嫌悪する彼の気持ちの裏に、死に対する恐怖が潜んでいたことは疑いをいれない。三島は死に対する恐怖から、自死することを選んだのだった。
私も40をすぎてから、死を意識するようになったが、そんなときに、遊びに来た親戚の老人から、こんなことを言われた。
「死ぬのが怖いという気持ちは、年をとるにつれて減って行くもんだ」と言ってから、ちょっと考えた後に、その言葉を修正するように、こう付け加えた「まあ、今はそう言っておくことにするか」。
返事の仕様がなかったので、私はそのまま、聞き流していた。だが、老人の言葉は私の頭に残った。当時、死について考えない日は、一日たりともなかったからだ。唯物論者の私は、死後に個体的意識、つまり霊魂のたぐいが残ることはないと信じていた。死ねば、私たちは完全に無に帰するのである。そのことを繰り返し心のなかで反芻しているうちに、私は何時しか死んで無に帰することをひそかに待望するようになっていたのだ。だが、やはり死に対する恐怖は生きていたのである。
60歳で退職した。退職後の私が考えていたのは、晴耕雨読の日々を送りながら、畑の中の茅屋で「終わりを待つ」ということだった。ところが、退職して分かったことは、60歳から始まる「第二の人生」とは、青春の再来に他ならないという事実だった。
クルマを持たない私は、在職中、原付バイクで通勤していたが、バイクは通勤の時使うだけで、これを使って遠出をしたことは一度もなかった。それが退職後は、バイクをとばして伊那谷をくまなく巡り歩くようになったのだ。人の通らぬ林道をバイクで登って里山の頂上を極め、帰途に道を探して反対側の谷間に出るようなこともした。
百姓仕事の合間に、翻訳物のミステリーを耽読するようにもなったのも、信じられないような変化だった。これまでは外国産の推理小説を毛嫌いしてほとんど読んだことがなかったのに、この手の文庫本を古本屋から束にして買ってきて、2〜3日に一冊の割で読み飛ばすようになったのである。
翻訳物のミステリーと同様に、私はそれまで身辺にあるビデオカセットとかステレオ装置などの機器の操作を苦手としていた。にもかかわらず、突然パソコンいじりを始め、DOS−V機やMAC機を、何とか使いこなせるようになった。ウインドウズが普及する以前に、「独学」でパソコンをマスターするのは相当な難事だったはずだが、あまり苦労したという記憶はない。
好きなことに没入するのが青春の特徴だとすれば、私は退職して青春をもう一度やり直すようになったのだった。というより、新しいオモチャに夢中になる子供時代に戻ったのである。精神的に小児、乃至青年のレベルに戻ることになれば、当然、死について考えることはなくなる。私は時々、親戚の老人の言葉を思い出して、(じいさんの言ったことは本当だったな)と感じ入った。
90代になっても元気だった宇野千代は、「私は死なないような気がする」と言っていたという。私にはそこまでの自信は勿論なかったが、若かった頃のように死は遠い先の話だと感じるようになっていたのである。実際、60代の私は、心身共に充実していた。今思い返しても、あんなに元気だった時期は、自分の人生の中で後にも先にも一度もなかったように思う。
しかし、70代に入ると体力は確実に衰えはじめた。ゆるやかな坂道を下って行くような具合に老化が進行しはじめたのだ。私はバイクに乗って遠出をすることを控えるようになり、夜を徹してミステリーを読みふけることもなくなった。第二の青春は終わりを迎えたのである。
私は妻子に遺す遺言状を書き、若い頃の日記やノートを探し出して焼却した。そして家にこもって、年をとったら読もうと思って買っておいた本を机上に広げるようになった。いよいよ先が見えて来たと感じたからである。
だが、死に対する私のイメージは、依然として、坂道を緩やかに下っていって終末に達するというふうなものだった。私は転んで骨折した老人が急に呆けてきたり、一週間風邪で寝込んでいただけで、快復後腰が立たなくなった年寄りがいることを見聞していながら、老いは徐々に深まるものだと思いこんでいたのである。
その錯覚に気づいたのは、自分の老化が一挙に進むという体験をしたからだった。去年の末に胃痙攣に襲われ七転八倒して以来、体調不良がつづき目に見えて体力が衰えて来たのだ。老化は坂を下るように進行するのではなく、崖から落ちるように一挙に進行する――これが体験的に知った老化の姿だった。
人は、崖から落ちるようにして衰え、その何度目かの落下の一つによって死を迎える。
死とはそのようなものだと分かってみれば、自ずと覚悟も出来てくる。いかに避けようとしても、病気や死は予告なしに不意にやってくるのだ。私は「終わりを待つ」という言葉を、人はみな蝋燭の火が消えるように穏やかな終焉を迎え得るという仮定に立って解釈していた。だが、本当は老いることも死ぬことも、そんな予定調和的なものではないのである。
死の覚悟は、頭だけ、心の中だけで作為しても、効力を持たない。やはり、病死の実相に基づいたものでなければ、つまり「事実唯真」を基盤にして自ずからにして生まれたものでなければ、内面に根付かないのだ。
死についての意識がこんな風にしてくるくる変わるとは思いもよらないことだった。人の意識や思想を変えさせるものは、冷厳な事実だけなのである。