プロの世界に外国人がやってきてトップになるというのは、大相撲だけの話ではない。そのハシリとなったのは、戦前における囲碁の世界ではなかったろうか。
戦前に来日した呉清源は、並み居るプロ棋士たちをなぎ倒して日本棋界の第一人者になった。彼の活躍は戦後にも及び、向かうところ敵なしの状態が戦前戦後を通して長い間続いたのである。その後も、囲碁界には外国から強力な棋士がやってきて、日本人を顔色なからしめている。戦後に来日した韓国出身の趙治勲は、前人未踏の成績をあげている。囲碁界の七大タイトルを全て一回以上経験する事をグランドスラムといい、棋聖・名人・本因坊を一度に獲得する事を大三冠と呼ぶけれども、この二つを達成したのは、趙治勲一人だけなのだ。
現在の囲碁界をリードしているのも台湾出身の張栩名人で、いずれ彼も趙治勲と並ぶような成績をあげるだろうと予想されている。プロ将棋の世界だけは、日本人の独壇場で外国人棋士の姿を見ることが出来ない。けれども、これは日本式の将棋が外国人にはなじみにくい独特のルールを持っているからだろう。
さて、囲碁や将棋の観戦記を書くのを得意とした坂口安吾は、「呉清源十番碁観戦記」(このときの呉清源の相手は、百戦錬磨の本因坊秀哉)を新聞に掲載した後で、呉清源論を書き、彼が何故強いか分析している。
「呉清源は、勝負をすてるということがない。最後のトコトンまで、勝負に、くいついて、はなれない。この対局の第一日目、第二日目、いずれも先番の本因坊に有利というのが専門家の評で、第一局は本因坊の勝というのが、すでに絶対のように思われていた。
三日目の午前中まで、まだ、そうだったが、呉氏はあくまで勝負をすてず、本因坊がジリジリと悪手をうって、最後の数時間のうちに、自滅してしまったのである」
安吾はこう書いた後で、専門棋士なら勝負に執着するのは当然だが、呉清源の執着ぶりは日本人のそれとはちょっと違っていると書く。
「もとより、勝負師は誰しも勝負に執着するのが当然だが、呉氏の場合は情緒的なものがないから、その執着には、いつも充足した逞しさがある。・・・・・呉清源には、気分や情緒の気おくれがない。自滅するということがない。
将棋の升田は勝負の鬼と云われても、やっぱり自滅する脆さがある。人間的であり、情緒的なものがある。大豪木村前名人ですら、屡々自滅するのである。木村の如き鬼ですら、気分的に自滅する脆さがあるのだ。
それらの日本的な勝負の鬼どもに比べて、なんとまア呉清源は、完全なる鬼であり、そしすべて、完全に人間ではないことよ。それは、もう、勝負するための機械の如き冷たさが全てであり、機械の正確さと、又、無限軌道の無限に進むが如き執念の迫力が全てなのである。
彼の勝負にこもる非人間性と、非人情の執念に、日本の鬼どもが、みんな自滅してしまうのである」
呉清源が感情的な動揺を抑え、必ず勝ってやるという鋼鉄のような意志を最後まで持ち続けるのに対して、日本人棋士は対局中、弱気になったり、反対に形勢有利となれば調子づいたり、とかく動揺を抑えきれない。日本人棋士には、人間的な弱さと甘さがあるのである。
安吾は「呉清源論」の末尾に、十番碁に負けた本因坊秀哉の言葉を引用している。
「呉さんの手は、あたりまえの手ばかりです。気分的な妙手らしい手や、シャレタような手は打ちません。ただ、正確で、当たり前なんです」
本因坊秀哉の言葉が正しいとすれば、呉清源の「必ず勝ってやるという鋼鉄のような意志」とは、実は、当たり前のことを正確に実現して行く平常心に他ならないのだ。どんなことがあっても乱れない平常心を維持しているから、彼は勝負の鬼にも見え、非人間的な怪物とも映るのである。
呉清源が当然のことを正確に実現して行く平常心を持っていたとしたら、それは彼が内に揺るがぬ生活システムとそれを支える行動原理を持っていたからだろう。呉清源は原理主義者だったのである。中国福建省に生まれた少年が、単身日本にやってきて少しも動じることがなかったのは、その頃から世界主義に基づく原理主義者だったからだと私は考える。
日本人に弱さと甘さがあるとしたら、それは周囲の目、世間の目を気にして原理主義的な態度を取れないからだろう。
(写真は、若き日の呉清源)