近頃、学力の二極化ということが言われている。つまり、勉強の出来る子はいよいよ出来るようになり、出来ない子はますます出来なくなるという現象だ。この二極化を加速させる背景には、家庭の経済力の有る無しという二極化があり、都市と地方の格差拡大という二極化がある。
昔は金持ちのノラクラ息子より、貧乏人の子供の方が勉強が出来たり、遊びなれた都会のモダンボーイが学習面で田舎から出てきた泥臭い子供に負けるという話も聞かれたが、今やそんなことは全くなくなっている。貧乏人の子供は金持ちの子供に負け、地方の生徒は都会の生徒に負けるのである。地方と都市の問題については、私の身近に次のような事実がある。人口6万の「地方都市」である当地では、戦後20年ばかりの間、地元高校から毎年5〜6名の東大合格者を出していた。だが、近頃では、一人の合格者も出していない。そして、こういう状態が、この10年ほど、ずっと続いているのである。
戦争が終わってから、地方出身の大学生が卒業後、東京や大阪に就職し、そこに腰を据えてしまう傾向が強くなった。彼らは、そこに家を作り高学歴の女性と結婚する。そして夫婦協力して生まれてきた子供を、小学生の段階から受験戦士に仕立て上げるのだ。子供たちは、めでたく進学教育中心の私立中学・私立高校に入学し、さらに受験技術に磨きをかける。これでは、地方の貧しい子供たちが受験戦争で遅れをとるのは当然の結果なのだ。
しかし、注意すべきは学力の二極化と、教養の二極化の間にズレがあることなのである。受験戦争の勝者は、日本ではキャリアと呼ばれる官僚になることが多い。事情はフランスでも同様で、かの地の秀才たちも官僚になるケースが多く、それ故、日本とフランスの官僚は世界で最も優秀だと言われている。だが、両者には決定的な相違が一つあるともいう。フランスの官僚が豊かな教養を身につけているのに、日本の官僚は教養面でゼロに近いというのである。
当ブログでよく話題にする運輸官僚出身の佐藤栄作は、プロ野球以外に趣味はなかったそうである。彼は帰宅すると、すぐテレビの前に座りこんでナイター中継の観戦をはじめ、それが途中で打ちきりになると、携帯ラジオを持って風呂に入り、野球の続きをラジオで聞いていたという。ちなみに、彼は巨人軍の王選手のファンだったそうである。
教養ゼロだったのは佐藤栄作ばかりではない、キャリア官僚の愛好するテレビ番組は時代劇だという話を聞いたことがある。彼らが目を通すのは仕事に関係する資料ばかり。余暇があればゴルフをしているから、高級官僚が教養書に割く時間はほとんどないのである。これでは、日本の秀才官僚たちが、世界に出て行ってあまり尊敬されないというのも無理からぬことだ。
今、問題になっている高校での必須科目未履修の話でも明らかなように、「エリート受験生」は受験科目しか勉強しない。彼らが一意専心学習するのは、教科書的知識であり、文部科学省、大学側が指定する規格型知識だけなのである。そして、教養というのは、そうした枠にはまった規格型知識の外側に、海のように広がっているのだ。
与えられた課目の学習でいい点を取り、受験戦争の勝者になるのは、二流の秀才に過ぎない。大岡昇平は、「文字が読めるようになってから、他人から学ぶことはなくなった」といっているけれども、本当の秀才は何を学ぶべきかを自ら決め、自分の力で自分の世界を作って行くものなのだ。教養とは、各人が形成する個性的な世界のことであり、それぞれの生命的欲求が生み出したユニークな知的世界のことなのである。
徒然草に、こんな話がある。
盛親僧都という僧侶は、すぐれた資質を備えていたけれども、ひどく貧乏だった。師匠はこれを憐れんで、死に臨んで銭二百貫と寺一つを与えたが、彼はその寺を売り払って現金に換え、銭二百貫と共に全部好きな芋がしらを食うのに使ってしまったというのである。
この盛親僧都のような人間が、真のインテリであり、教養人なのである。だが、学力の二極化というとき、このタイプの人間は勉強の出来ない方に組み込まれてしまう。けれども、新しい思想や芸術は、この盛親僧都的な人間の手で作り出される。学力の二極化と教養の二極化は一致しないし、創造の二極化とも一致しないのである。