朝日新聞には読者によるテレビ番組の短評欄があり、今日のこの欄に「泣きながら生きて」という番組にに対する賛否両論が載っていた。この作品はフジテレビの芸術祭参加番組で、なかなかの力作だったのである。
次に賛否両論の要点を抜き書きしてみよう。
肯定論
「3日の『泣きながら生きて』(フジ)は、家族愛や幸せとは何かを教えてくれた。日本で働いて中国に仕送りする丁さんの暮らしぶりを、10年にわたり記録した取材班に拍手したい。自分を犠牲にして家族に尽くす丁さんは本物の男だと思う。妻は上海、娘は米国と離れていてもお互いを信頼し感謝し合う姿に、忘れかけていた家族のきずなを見た」
否定論
「『泣きながら生きて』の丁さんのように就学生ビザで来日して、すぐに姿をくらましてしまう人は多い。日本は金を稼ぐ場所だと割り切っている。仕事のない過疎地に外国人向けの学校を作るのは問題だと思う。しかし、転校も考えられたはずだ。法律違反を美談仕立でにしてもいいものだろうか」
肯定論の筆者は73才の男性、否定論の方は大学非常勤講師をしているという50才の女性である。
番組を見ていなかった人のために内容をかんたんに紹介すれば、これは中国の文化大革命によって都会から農村に「下放」された男女を取り上げた作品なのだ。丁さん夫婦は、下放された農村で知り合って結婚し、やがて上海に戻ってくる。だが、貴重な青春期を田舎で過ごした夫婦には学歴もなければ技術もなかったから、彼らは生まれてきた一人娘を育てるだけで精一杯というような苦しい生活を送っていた。
丁さんは35才になったとき、友人から日本のいいところを色々と聞かされ、日本に留学することを決意する。そのためには、入学金など当時の中国人にとって目のくらむような大金を払い込まなければならない。丁さんは、親戚や友人・知人から借金して必要な金を支払い、念願の日本にやってくる。借りた金は、学業の余暇にアルバイトをして返済して行くつもりだった。
日本に来てみると、入学した中国人向けの日本語学校は北海道の阿寒町にあった。
炭坑が閉山して人口の減少に悩んでいた阿寒町は、廃校になった学校や人の住まなくなった町営住宅を多数抱えこんでいた。町が外国人学校を開設したのは、これら遊休施設を活用するためだったのである。
阿寒町にやってきた丁さんは、町営住宅に落ち着いた。一部屋に6人というすし詰め状態の住まいだったが、それは我慢できるとして、困ったのは過疎の町にアルバイト先が皆無なことだった。これでは借りた金を返済する見通しが全く立たないのだ。
丁さんは思い切って東京に移ることにした。就学生ビザで来日したくせに学校をやめてしまえば、その瞬間から「不法滞在者」になる。丁さんは、これ以後日本に滞在する15年間を「不法滞在者」として生きることになる。
東京にやってきた丁さんは、三つもの仕事をかけもちして、寝る間を惜しんで働いた。借金の返済と上海に残してきた妻子に送金するためだった。何時しか彼は、日本の大学に進むことをあきらめ、自分の代わりに娘を進学させようと考えはじめていた。
留守を守る妻は縫製工場で働きながら、夫の帰国を待っていた。彼女の胸には、渡日以来一度も帰国しない夫への疑念がきざして来ていた。もしかしたら、夫に女が出来たのではないか。
丁さんが帰国しなかったのは、そうすればビザの発給が停止になり、二度と来日できなくなるからだったのだ。丁さんに対する妻子の疑念が解けたのは、テレビの取材チームが彼の東京での生活ぶりを撮影したビデオを見せてやったからだった。小学校4年の時に父と別れた娘は、そのビデオを見て泣き崩れる。ビデオを見て娘は泣き崩れたが、妻は硬い表情を変えなかった。彼女はまだ半信半疑だったのである。
娘は自分のために苦労している両親のためにがんばり続け、ニューヨーク州立大学に合格する。彼女は飛行機で米国に渡る前に一日だけ東京に立ち寄り、父と会っている。
十年近い歳月を隔てて久しぶりに顔を合わせた父娘は、ぎごちない会話を交わした。
父は、太り気味の娘に声をかける。
「ダイエットをした方がいいんじゃないか」
「運動をした方がいいぞ」
すると、娘は相手の忠告を振り払うように答えるのだ。
「このままでいいの」
再会を終えて父娘は、成田駅で別れるが、このときも娘は冷淡な表情を見せる。父がプラットフォームでしきりに涙を拭いているのに、娘は電車が発車するまでそっぽを向いているのだ。しかし、電車が動き出して父の姿が見えなくなると、彼女は人目をはばからず泣き出すのである。
それから数年して、丁さんの妻も東京にやってきて夫との再会を果たしている。彼女はニューヨークの娘に会うために渡米する途中、飛行機を降りて足かけ三日を夫と過ごしたのだ。日暮里駅で夫と再会した時の妻の表情が、今も目に残っている。夫の姿を認めて電車を降りてくる彼女の全身が喜びにふるえていた。自然にわき出て彼女の顔を覆ったうれしそうな表情は、私がこれまでに見たことがないようなものだった。
再会を終えて別れるときの光景も、父娘の別れの光景と同じだった。プラットフォームで妻を見送る夫は、溢れる涙をしきりに掌で押し拭っている。しかし、妻は電車が動き出したときに夫の方に顔を向けて、片手をちょっとあげて見せただけだった。夫に姿が見えなくなってから、妻が泣き続けるところは、娘の場合と同じだった。「泣きながら生きて」という題名は、ウソではなかったのである。
この番組は、大学の医学部を卒業した娘がインターンとして病院に勤務している場面に続けて、丁さんが日本での生活を切り上げて上海に戻るところで終わっている。私は森鴎外の「じいさんばあさん」という小説を思い出した。長い間生き別れになっていた男女が、再び一緒になって幸福な老後を送るという作品である。丁さん夫婦も、15年間、生き別れになっていたのだ。
中国の秀才たちは、アメリカやヨーロッパを留学先に選び、日本にやってくるのは出稼ぎ目的の中国人が主流になっている。金を目的でやってくるから、中国人が犯罪に手を染めるケースも増える。でも、中には丁さんのような事例もあるのだ。
ハッピーエンドで終わった丁さん一家のような事例は、まれにしか発見できないかも知れない。しかし、こういう番組を見ると、「不法滞在者」を見る目も少し変わってくるのだ。不法に滞在する外国人のなかにも、第二、第三の丁さんがいるに違いないからである。