人はなぜ自殺するのだろうか。
簡単に言ってしまえば、外に向けていた攻撃的エネルギーを反転させて、自分自身に向けるからだ。学校でいじめられていた子供が、自殺するのもこのメカニズムからだと思われる。
「外に向けた攻撃的エネルギー」といっても、敵に打ち勝とうとするエネルギーを意味しているだけではない。難問を解決しようとするのも攻撃的エネルギーだし、自分が置かれている不快な状況を打開しようとするのも攻撃的エネルギーだ。異性への性愛行動にも、攻撃的エネルギーが混在している。どの民族にも近親相姦への禁忌があるけれども、これは今まで慣れ親しんできた肉親に攻撃的エネルギーを振り向けたくないという心情が働いているからだ。
外に向けていた攻撃的エネルギーが大きければ大きいほど、そして、そのための戦いの期間が長ければ長いほど、目標を達成できなかったときの失意は深く、蓄積された攻撃的エネルギーの持って行き場がなくなる。身近な人間に当たり散らしたり、手にしていた食器を壁に投げつけたりしただけでは、その怒りは到底収まらない。
かくて、攻撃的エネルギーを自分に振り向け、自分を抹殺することによって攻撃的エネルギーを消滅させるしか方法がなくなる。
漱石は「心」という作品で、「先生」の親友のKを自殺させている。Kは「お嬢さん」を先生にとられたから自殺したのではなかった。自分をタフな人間にするために長い間努力してきて、つまり自身を理想的な人格にするためにわが身をむち打ってきて、どうしても自分の弱さを克服できなかったから、自己処罰の方法として自死を選んだのだ。
先生は、裏切者の伯父に向けていた攻撃的エネルギーを、「お前だって伯父と同様に卑劣な人間ではないか」と自分に振り向けることで自殺した。Kも先生も強すぎる攻撃的エネルギーを持っていたために、自らを死に追いやったのである。
問題は、外部に向けていた攻撃的エネルギーの強さにあるように見える。
とすると、いじめを受けた側の少年少女も、加害者の級友に対する怒りが強すぎ、それが自分に跳ね返ってきて自殺することになったのだろうか。一応、そうとも考えられる。
今度、遺書を残して死んだ子供たちが受けていたようないじめは、実は、どこの学校にも日常的に存在していると思われる。たいていの子供は、同じようないじめを受けても何とかやり過ごして大人になって行くのに、人より強い反撃意志を持つ子供が、仲間への復讐を果たすことができず、怒りを自分に向けて自殺したと思われるのである。
これらの子供たちの残した遺書は、級友への最後の反撃だったと考えられる。彼らは、級友のいじめを告発し、加害者を糾弾して自死している。
強すぎる攻撃的エネルギーを持っているから自殺するのだとしても、攻撃的エネルギーそのものを否定することはできないだろう。勉強して偏差値を上げようとするのも、不正に抗議して戦うのも、攻撃的エネルギーがあるからであり、これあるがために世の中は進歩して行くのである。
攻撃的エネルギーは、本来生命体の内部で「受容エネルギー」と組み合わされてそんざいする。生命力は、両者を車の両輪にして活動しているのだ。攻撃的エネルギーが破壊と建設を担うとしたら、受容エネルギーは現状をそのままで受け入れ、現世に対するに鑑賞的態度をもってする。生命は自分が置かれている現実をより良いものに変えようとしながら、同時に、立ち止まって現実を鑑賞的に眺め、ありのままの世界を賞味する。常に努力しながら、現世を楽しむことも忘れないのである。
要は、生命的欲求をバランスよく充たして行くことなのだ。子供のいじめは攻撃的エネルギーが強すぎるからだし、これに抗議して自殺する子も攻撃的エネルギーの使い方を間違えている。これらの子供たちに必要なのは、仮死状態にある受容エネルギーを目覚めさせることなのだ。子供たちを塾に追いやる代わりに、彼らに攻撃的エネルギーと受容エネルギーの合体した芸術的創造活動の世界があることを知らせるのである。
教師や親たちが全国学力テストの成績に一喜一憂するようになったら、この国もおしまいである。