(写真はロシア人妻クラウディア)
フジテレビが制作した「奇跡の夫婦愛スペシャル」という番組を見た。
この番組のもとになっているのは、敗戦後、スパイ容疑でソ連に抑留され、現地でロシア人女性と結婚した日本人の男が、ロシア人妻と37年間暮らした後に帰国し、再婚しないで夫を待っていた日本人妻と再会するという実際にあった話である。
この話は、かなり以前に、「クラウディアの手紙」という題名で、日本海テレビ制作のドキュメンタリー番組として発表されている。そして、優れた放送作品に与えられるギャラクシー賞を獲得し、WOWOWで再放送されている。私はこれを見て感動したので、自分のHPにその感想を書き込んだのだった。以下に、その文章を再録してみる。https://amidado.jpn.org/kaze/home/6nikki.html
──作品のあらすじはこうである。
戦時下の平壌で、妻子と共に平穏に暮らしていた会社員蜂谷弥三郎が、敗戦直後、進駐してきたソ連軍に逮捕されてしまう。スパイ容疑であった。シベリヤに連行された蜂谷は、やがて釈放される。だが、KGBの監視下にあって帰国の見込みが立たなかった蜂谷は、クラウディアというロシア女性と結婚してしまうのだ。こうして、彼は国籍を異にする二人の妻を持っことになる。
ロシア人妻クラウディアは、ソ連に永住しなければならなくなった蜂谷に同情して、その庇護者になる。ロシア語をろくに話せなかった蜂谷は、クラウディアの支えがなければ、厳寒のシベリアで生きて行くことができなかったに違いない。
蜂谷は帰国後、クラウディアの人柄について深い敬意をもって語っている。彼女から与えられた配慮を思い起こすと、涙が溢れてくると語っている。
クラウディアは、ロシア革命後の混乱期に、他人の家を転々としながら成長した。そして、成人後、就職した職場では、上司から汚職の罪を押しつけられて、10年の刑を受けている。こうした経歴の女性なら、人を恨み、世を憎む暗い性格になっても不思議ではない。ところが、彼女は、虐げられた人間に手をさしのべる優しい女性になり、異国の地で生きる蜂谷の支えになったのである。
クラウディアは、長い間、日本人の夫を天涯孤独の境遇にあると思いこんでいた。だから、彼が日本に帰りたがっているとは思わなかった。しかし、その彼女も、夫が人からもらった日本の新聞を大事に保存して、繰り返し読んでいる姿を見て、その心情を推察するようになるのだ。
やがて、ソ連が解体して、蜂谷は日本の親族とと連絡を取ることができるようになる。彼は平壌で生き別れになった妻が、引き揚げ後再婚しないで自分の帰国を待っていることを知る。彼女は、保健婦になって生計を立て、独力で娘を育て上げていたのだ。
ロシア人妻クラウディアは、37年に及ぶ結婚生活をうち切って、蜂谷を日本人妻の元に帰すことを決断する。「他人の犠牲の上に、自分の幸福を築いてはならない」という想いが、彼女にこうした決断をさせたのであった。
帰国した蜂谷が、50余年ぶりに故郷の駅頭で妻と再会するシーンは、感動的だった。出迎えの人々の間に混じって列車の到着を待っていた妻久子が、列車から降り立った夫を目にした瞬間に、何もかも忘れて子供のように走り寄るのだ。そして夫の胸にしっかり抱き取られる。
夫はすでに80歳を越え、若かった妻も今では同じ年頃の老女になっている。だが、再会した二人には、50年余の歳月も存在しなかった。互いの顔に刻まれた深い皺も目に入らなかった。相手を一目見るなり、昔の感情が奔流のようによみがえってきて、二人の胸を充たしたのだ。
現在、蜂谷夫妻は、妻の貯金で建てた小さな家で暮らしている。ロシア人妻のクラウディアは、今も、シベリアの旧宅に住み、結婚指輪をはめたまま、週に一度、日本の蜂谷に手紙を書き、蜂谷も欠かさず返事を書き送っている・・・
蜂谷のケースに登場する人々は、特別な人間ではない。日々を平穏に暮らすことを願いとする普通の人間たちである。けれども、彼らはそれぞれ「微量の善意」を持っていた。それが目に見えないところで働いて、三人にこのような人生を歩ませたのだ。
この三人だけではない。すべての人間が「微量の善意」を持っている。アダム・スミスは、この世を成り立たせているのは人間の利己心であり、打算だと言っているけれども、打算だけだったら、蜂谷のようなケースが生まれてくるはずはない。
われわれは皆、度し難い、エゴイストである。だが、ひとしく「微量の善意」を持っている。そのために家族制度もうまれ、人間社会も存続する。アポロ宇宙船以来、人が狭い国家意識を抜け出して、地球人意識を育てつつあるのも「微量の善意」があるからだ。
「微量の善意」を、エゴの砂漠に埋もれた砂金のようなものとしてイメージしてはならないだろう。人格を同心円構造を持つものと仮定して、善意や良心を自我の内部にある核心と想定するのは間違っている。エゴをいくら掘り進んでいっても、善意の泉に行き当たることはない。
善意は外側にあって、エゴという内円を包み込んでいる。エゴの外部に善意の世界があり、エゴに小さな穴があいたときに外円世界から善意の光が射し込んでくるのだ。射し込んでくる光は一筋で、エゴの目からは「微量」としか感じられない。しかし自我意識は、広大な善意の海、愛の海に浮かぶ椰子の実のようなものなである。微量なもの、ちっぽけなものは善意ではなくて、実は各人の利己心なのだ。