戦争中に「国策」に協力して、教え子を満蒙開拓団に送り出したり、予科練に応募させたりした教師がいる。そこまでしなくても、太平洋戦争を聖戦として賛美した教師は少なくなかった。日本の教師は、時の政府に従順であるようにしつけられていて、国策にすぐ協力してしまう悪癖があるのだ。
同じファシズム国家でも、ドイツでは権力側が教師をコントロールするのに苦労したらしい。あのヒトラーをもってしても、旧来の教育制度を変更したり、教科書を書き換えることが出来なかったから、彼はヒトラーユーゲントという青少年団を学校の枠外に作り、そこで青少年にナチス精神を注入するしかなかった。
だが、戦時下にあっても日本の教師のすべてが、盲目的に軍部に追随したのではない。骨のある教師もちゃんといたのである。
敗戦のちょうど一年前に、当地の伊那高女(現伊那弥生が丘高校)4年生270名は、名古屋に動員されて軍需工場で働くことになる。昭和19年の年末頃から工場への空襲が激化し、生徒たちは一夜に5回も防空壕に逃げ込まなければならいようになった。配属された三菱航空機製作所は、米軍機の標的になっていたのである。そんな夜は、彼女らは防空頭巾をかぶり、靴を履いたまま就寝した。
12月のある日、工場は朝から米軍機の波状攻撃を受ける。空襲が二回目になり、次の空襲で工場が壊滅的な打撃を受けると予想されるようになったとき、引率の教師たちは手分けして、工場内の防空壕に入っている生徒たちを呼び集めた。まだうら若い女教諭の高木と池上も、工場内を駆け回り、声をからして、「伊那高女の生徒は壕を出て寄宿舎に移動するように」と叫び続ける。教師らは、一刻も早く生徒らを工場から脱出させようと焦慮したのだ。
建物の外に出た生徒たちは、敵機が低空で迫ってくると近くの防空壕に飛び込み、門衛の制止を振り切って命からがら寄宿舎にたどり着いた。二時間の空襲が終わって工場に戻ったら、工場長が目に涙を浮かべて駆け寄ってきた。
「よかった、よかった。あんたたちの後に壕に入った名古屋第二高女の11人は全員が死んでしまったよ」
工場の内部は惨憺たるものだった。スレートの屋根は吹き飛び、僅かに鉄骨の支柱と壁が残っているだけだった。柱の高みには飛び散った血と肉片がこびりつき、何時の間にかやってきた鳥の群れがそれらを嘴でつついている。生徒たちは、鳥に向かって石や木ぎれを投げつけ、「バカ、バカ」と叫びながら泣いていた。
その三ヶ月後に伊那高女も一名の犠牲者を出している。飯島米子さんが空襲で落下したコンクリートを頭に受けて死亡したのだ。責任者の白鳥伝教諭は、生徒の霊を母校に持ち帰って弔らうことにした。彼はそのために全員の生徒を帰郷させてほしいと会社側と交渉し、何とか了解を取った。だが、270名分の汽車の切符を手配し、彼女の荷物を運搬する手続きを完了するまでが大変だった。
ようやく帰郷した彼女らを迎えて、淀川茂重校長は、「私の責任で、生徒の殺されるような所へはやらぬ」と誓い、三菱重工からの帰還要求を断り抜いた。周囲から非国民・卑怯者と罵られ、場合によっては憲兵隊に逮捕されるかもしれない危険をおかして、校長は生徒を守り抜いたのである。
以上に述べてきた事実は、「非核平和都市宣言をさらにすすめる伊那市民の会」の会報に掲載された建石敏子さんと早乙女勝元氏の文章を要約したものである。
私の妹はこのとき動員された生徒の一人だったし、犠牲になった飯島米子さんは遠縁の親戚に当たる。そして、私はその後白鳥伝教諭や高木教諭、池上教諭と知り合うことにもなった。あれから20年後、私が伊那弥生丘高校に赴任したときには、当時、工場内を駆け回って生徒を呼び集めていた高木・池上両教諭はまだ独身のまま同じ学校に勤務していたのだ。
私は事件の概要は知っていたけれども、引率教諭の白鳥・高木・池上の諸先生方が現場でどんな役割を果たしていたのか、何も知らないでいた。今度、会報を読んで、毎日顔を合わせている知人の過去についてすら、私たちは何も知ることなしに暮らしているという事実を改めて感じたのだった。
白鳥教諭や淀川校長が、時局に逆らう行動に出たのは情に流されたためかもしれない。だが、それだけではなかった。彼らの内部には、若い頃に身につけた大正デモクラシーの精神が生きており、世界につながる教養が残っていた。夜郎自大のちっぽけな愛国心を超えた大きな立場に立たなければ、こうした時流に逆らう行動に出ることは不可能なのである。