近頃、家族間の殺人が目立っている。子が親を殺したり、親が子を殺したりするニュースがいくつも続いたと思ったら、今度は兄が妹を殺すという事件が起きたのだ。
私はこの正月、ベットにくくりつけてある書見機で、トマス・H・クックの小説を二冊読んだけれども、二冊とも、「家族という地獄」をテーマにした作品だった。
「死の記憶」
「心の砕ける音」
読んだのはこの二冊。トマス・H・クックはミステリーの中に純文学の手法を持ち込む作家だから、両方とも文学作品としても十分に通用する作品に仕上がっていた。
「死の記憶」は、父親による家族全員の殺人を題材にしている(と言っても、そこはミステリーだから、最後にどんでん返しが用意されているけれども)。
父が散弾銃で母・兄・姉を射殺したとき、末っ子のスティーブは9歳だった。
彼だけが助かったのは、その日、たまたま小学校の友達と映画を見に行っていたからで、さもなければ彼も父に射殺されていたのである。この作品は、危うく殺されかかった末っ子を語り手にして進行するという構成になっている。
犯人の父親は逃亡してしまったから、孤独になったスティーブは伯母や伯父に育てられる。成長して建築士になった彼は、結婚して息子をもうけ、幸福な生活を送っている。そこへ、女流作家のレベッカが訪ねてくるのだ。
レベッカは一家を皆殺しにした父親に関するノンフィクション作品を計画中で、すでに他の三つの事件に関する資料を収集し終え、最後にスティーブの父親の事件を明らかにするために彼を訪ねてきたのだった。
レベッカは、彼女が手に入れた事件に関する写真や資料をスティーブに示しながら、彼の記憶を呼び起こしにかかる。スティーブの父親が家族を殺そうとしたのには、彼にとって耐え難いと感じさせる何かが家の中にあったはずだった。スティーブ自身もそのへんを知りたいと思っていたところだったから、彼もレベッカに協力して真相究明に乗り出すことになるのだ。
二人が協力して、父親の人間像に少しずつ迫って行くところは、綿密に書き込まれていて純文学の作品を思わせた。そして、探索を続けているうちに、何時しかスティーブの性格が変貌しはじめ、彼も又、家庭を桎梏と感じ出すところも文学作品と同様な味わいを見せていた。スティーブは、父親の人生を追尋して行くうちに、自らの人生体験と照らし合わせて、「父は家族によって精神的に殺されると感じたから、家族を殺したのではないか」と思い当たるのである。
レベッカは、スティーブに協力を求めたことで彼を父親と同じようにしてしまったことを悟り、罪悪感を感じながら去っていく。スティーブは、自分の家族を殺しはしなかった。しかし、妻と子に見捨てられて天涯孤独の身になるのだ。
孤独になったスティーブは、本腰を入れて逃亡した父親を捜し始める。そして、逃亡30年後の父親を捜し当て、そこで父の口から思いもよらない事件の真相を知らされるのである・・・・
「心の砕ける音」も、家族間の問題を取り上げている。
キャルとビリーという兄弟は、小さな町でローカル新聞を経営する父親のもとで育った。父は理性的な現実家だったが、母は反対に詩を愛するロマンティストだった。母は自分とよく似た弟のビリーを寵愛し、兄のキャルには冷淡だった。現実家の父は、母とは反対に兄のキャルに目をかけていた。弟が母の影響を受けて、「愛のある人生」を求めているのに対し、兄の方はリアリストとして、「愛なしに生きる生活術」を身につけようとしていたからだ。
水と油のようだった両親は、やがて別居するけれども、キャルとビリーは不思議なほど仲がよかった。キャルが大学を出て地方検察官になり、ビリーが父の跡を継いで新聞社を経営するようになってからも、二人は強い愛情によって固く結ばれていた、ドーラという美しい娘が出現するまでは。
ドーラは古ぼけたスーツケース一つを手に、バスでやってきてこの小さな町に降り立った素性不明の娘だった。彼女はビリーの新聞社を訪れて求職の広告を出し、年老いた資産家の家の家政婦になる。だが、雇い主の老人がまもなく死んだために、ドーラは再び仕事口を探さなければならなくなり、気の毒に思ったビリーが彼女を新聞社に雇ってやる──事件はこんな具合にして始まったのである。
ビリーは、たちまちドーラに夢中になってしまう。そうしたビリーを危ぶんでいた兄のキャルもドーラに惹かれ始め、兄弟が一人の女を巡って微妙に対立する三角関係に落ち込む。ビリーが交通事故を起こして入院中に、キャルとドーラの仲は深くなり、遂に行くところまで行ってしまう。その段階になって、キャルはドーラが弟を愛していないことを知るのだ。
そして悲劇が起きる。ドーラがビリーを刺し殺して姿を消したのだ。
検察官のキャルは、手を尽くしてドーラを探し当て、彼女から意外な真実を聞かされることになる。このどんでん返しは実に見事で、私は読み終わって思わず拍手喝采したほどだった。
家族というのは、最も濃密で永続的な人間関係を意味するから、その中にいる人間にとってオアシスと感じられる場合もあれば、虎バサミと感じられる場合もある。「死の記憶」の父親やその息子のスティーブにとって、家はオアシスではなく、自分をがっちり挟み込んではなさない虎バサミだったのである。
目下、マスコミを賑わせている兄による妹殺人事件も、犯人の次男坊にとって歯科医一家が虎バサミのようなものとして感じられていたのではないだろうか。家族の全員がそれぞれ「成功者」という立場にあるのに、次男坊だけが受験に3度も失敗して先の見込みも立たない落伍者なのである。しかもまずいことに、彼は単なる落ちこぼれではなかった。かなりシャープな頭を持った文学青年だったのである。
彼はクラスでは下から二番目の成績だったという。それは彼が哲学書から魚関係の本まで、手広く本を読みあさる読書家だったためらしい。彼は高校の卒業文集に、自分を突き放して皮肉な笑いを浴びせるというスタイルの、エスプリに富んだ文章を載せている。この少年は、歯科医などを目指さずに大学の文学部に進むべきだったのだ。
今回の事件には、まだ不明な点が多々ある。
3年間口をきくことなく、互いにそっぽを向き合っていた兄妹が、急に「勉強しないから、夢が持てないんだ」というような口喧嘩を始めるものだろうか。この事件を取り上げたテレビでは、妹が入浴しているところを兄が覗き見をして、そのために口喧嘩になったのではないかという意見が出ていた。
次男坊は妹を殺した後で、生き返ることを恐れて妹の顔を水の中に押し込んだり、それでもまだ不安で、相手の体をバラバラにしている。この辺に神経症的な行動が見られるのだ。とにかく、彼にとって自宅が安住の場でなかったことは確からしい。