どの民放テレビ局も、バラバラ殺人事件の容疑者三橋歌織について、過熱といっていいほどの報道を繰り返している。番組のタイトルもよく似ていて、「セレブ妻の心の闇」といった風になっている。だが、ざっと眺めたところ容疑者の「心の闇」を解明した番組は、あまり多くないような気がするのだ。
三橋歌織と夫の関係を見ると、最初は三橋歌織が、あらゆる点で夫に対して優位に立っていたのだった。二人が交際するようになってから間もなく、男は友人に、「彼女は頭もいいし、知識も豊富だ」と三橋歌織を褒め、精神面で相手が自分より優位にあることを認めている。男は歌織より二歳年少で、甘やかされて育った一人息子だった。それで彼は、世間智の面でも歌織に一日の長のあることを認め、彼女に敬意を払っていたのである。
その頃の男は、転職先を探している最中で、経済的に苦しかったから、交際一ヶ月後に歌織のアパートに転がり込んでいる。彼は、年上の女のアパートに転がり込んだことで、自らを女に依存する弱者の立場に置いてしまったのだ。
男の友人は、同棲後に友人が見違えるほどしっかりしてきたと証言している。男は女が朝早く起きて英会話の勉強をしているのを見て、自分も早起きして一緒に勉強するようになった。それまでの彼は、朝寝坊で勉強らしい勉強をしたことがなかったのだ。この生活革命が功を奏したのか、男は難関の入社試験に合格して、外資系の不動産会社に採用されることになった。三橋歌織は、年下の相手を叱咤激励して一人前の男に育て上げたのである。
二人は知り合ってから三ヶ月後に結婚する。だが、双方の実家はこの結婚に反対だった。九州にいる夫の両親などは、腹を立てて、大事な一人息子に勘当を言い渡したほどだった。歌織も親の反対を振り切って結婚したため、以後ほとんど新潟の実家に帰省することがなくなている。こうなれば、夫婦仲は一層緊密になってよさそうに思われるが、実はこの頃から二人の関係は悪化の一途をたどっていくのである。
原因は夫が外資系の会社の社員になり、高給を取るようになったからだった。それまで妻の優位を認め、妻のリードに従っていた夫が、妻への対抗意識を燃やしはじめ、事ごとに相手と張り合うようになったのだ。夫は、「俺は毎月これだけの収入がある。お前もこれだけ稼いでみろ」と自慢するかと思うと、「俺の考えている金は、そんなちっちゃい金じゃないんだ」と豪語する。
やがて酒好きだった夫は、深酒して夜更けに帰宅し、妻を殴るようになった。そして、酔いにまかせて、聞くに堪えないようなえげつないことを放言するのである。歌織の目には、夫がまるで「自分には、何をやっても許される」と思いこんでいるように見えた。
そして、ついに妻の携帯電話を覗いて、浮気しているのではないかと錯覚した夫は、殴って妻の鼻の骨を折るという乱暴を働くようになった。この時、夫は妻の両親に、土下座して謝罪している。だが、意外にも三橋歌織は夫を責めなかった。
「あなたは、大きな器(うつわ)になれる人よ。もっと上にあがれるわ。今のままじゃ、問題点があるけれど」
そうやって夫を弁護しながら、彼女は今後他人の携帯電話を覗かないことなど三箇条の誓約書を夫に書かせ、更にもし又暴力を振るうようなことがあったら、家財など一切の名義を妻のものに書き換えることを約束する念書を夫に書かせている。三橋歌織は、鼻の骨を折られたことを逆手にとって、再び夫を上から見下ろす優越的な立場を取り戻したのである。
振り出しに戻り、またもや妻に頭を押さえつけられることになった夫は、友人や弁護士と相談して離婚の方法をさぐりはじめる。同級会に出席した彼は、高校時代の女友達に再会して、彼女と再婚することを夢見るようになっていたのだ。
夫から離婚話を持ち出されて、三橋歌織の怒りは爆発した。
彼女は、夫に未練があったわけではない。離婚話を劣位にある夫から切り出されたことが、我慢ならなかったのである。それに、夫が今の地位にあるのは自分がバックアップしたおかげではないか。それなのに、夫は自分に感謝するどころか、昔も今も自分のことを踏み台としか考えていない。
それに離婚しても彼女には帰る場所がなかった。故郷の父は事業に失敗し、自社ビルを競売で人手に渡してしまっていた。あれやこれやを考えると、彼女はいたたまれない気持ちになった。こうして、三橋歌織は夫を殺害する決意を固めるのだ。
私には、今度の事件は夫婦が家庭内で主権者の座を巡って争い、夫婦双方が共倒れに終わった事件のように思われるのである。