歯科医師宅バラバラ殺人事件では、全く、思い違いしていた。
両親ともに歯科医師、兄は大学歯学部に在学、妹は芸能界で活躍し始めたという家庭環境の中で、次男の勇貴容疑者だけが受験に三回失敗して浪人中だった。こういう家庭事情から、私は、勇貴容疑者が家族の中で独りだけ孤立していたのではないかと考えてしまったのだ。劣等感を抱いていた勇貴容疑者は、「成功者」側を代表する妹から「夢がないから駄目だ」と言われ、カッと逆上した──と、まあこんな風に推理したのである。
ところが、その後、家の中で孤立していたのは、勇貴容疑者ではなくて妹の方だったことが明らかになってきた。妹の亜澄はやりたいと思ったことには何でも挑戦する現代的なタイプで、いかがわしい職場でアルバイトをしたり、無断外泊を重ねたり、R15系のVシネマに出演したり、家族の顰蹙を買うような行動を繰り返していたのだった。
「家族のみんなに嫌われている」と感じた亜澄は、母親と口汚い言葉を使って口論をするようになった。こういう妹に対して、家族の総意を代弁して「制裁」を加えていたのが勇貴容疑者だったらしいのだ。亜澄は知り合いに、兄から始終暴力を振るわれていると打ち明けている。
母と長男が実家に帰省し、父親も外出中で、家の中には二人しかいなくなったときに、勇貴容疑者は数日前に母親と口論した際の亜澄の言葉遣いをなじったらしい。勇貴容疑者は、接見した弁護士に「妹は恩知らずで、わがままだ」と語っていたというから、もっと親に敬意を払えと叱りつけたのだろう。
そして、このへんから事実関係がハッキリしなくなるのだが、弁護士の話によれば、勇貴容疑者は木刀を持ち出してきて妹の頭を殴りつけた。木刀で殴った後で、なおも二人は一時間ほど亜澄の生活態度について口喧嘩を続けたというから驚くほかはない。殴られて出血しながら妹は兄への反論を続け、「夢がないから駄目だ」という兄を決定的に怒らせてしまう問題発言をするのである。兄は、カッとしてタオルで妹を絞殺する。
そのあとで、勇貴容疑者は妹が蘇生することを恐れて顔を水の中に漬け、更に全身をバラバラに切り刻んだと自白している。こうした念の入った殺し方に、変に律儀で几帳面だった容疑者の性格が色濃く表れている。
勇貴容疑者は、高校時代、授業中に眠ってばかりいて学科の勉強に興味を示さなかった。文科系の本を好んで読んでいた彼にとって、大学の歯学部を受験することは本意ではなかったと思われるが、勇貴容疑者は三回受験に失敗しても、なお、歯科医になることを諦めなかった。
これは、父と母が別々の診療所を持ち、両親のあとを子供が継ぐとしたら、兄だけでは足りず、弟も歯科医になる必要があったという事情を反映している。両親は勇貴容疑者に歯学部以外の受験を勧めていたのに、律儀な彼はあくまで初志を貫こうとしたのである。
勇貴容疑者の行動で、最も不可解なのは、バラバラにした妹の死体を自室に放置したまま予備校の強化合宿に参加したことだ。父親も一足遅れて実家に帰省することになっていたから、強化合宿への参加を遅らせさえしたら、死体を隠す時間は十分あった筈だった。しかし、彼は合宿に期日通りに参加することを優先させて、自分を窮地に追い込んでしまったのである。
哲学書などを読み、高校生のレベルを超えた自己省察の能力を持ちながら、勇貴容疑者は世間的なモラルにこだわり、妙に馬鹿正直な振る舞いをする。逮捕された彼は、「悔やんでも悔やみきれない」と語り、妹の亜澄だけでなく、家族や予備校にまで涙ながらに謝罪しているのだ。
これに比べると、外資系社員バラバラ事件の容疑者三橋歌織には自己反省の気配がない。彼女は夫を殺害した理由を、「私の存在を否定し、私がしてきたことを全然認めてくれなかったから」と説明している。そして、「夫は私に謝罪の気持ちを見せたことが一度もない」とも話している。
勇貴容疑者と三橋歌織容疑者は、いずれも私憤に基づいて人を殺している。勇貴容疑者にはこれに加えてなにがしかの公憤があるのに、三橋歌織にはそれが全くない。私憤だけで、夫を殺しているのである。女性が人を殺すときには、私情だけを動機として決行し、実行後もほとんど被害者に詫びないという共通点がある。今回の二つのバラバラ事件は、殺人を犯す男と女の心情上の違いを明瞭に示しているように思われる。