(芝生から校舎を望む。事務室はこの校舎内にあった)
三十代後半のある日、私はそれまでの自分の人生を振り返って、最も幸福な時期がいつであったか考えてみた。即座に、就職した最初の年のことが頭に浮かんできた。あの一年ほど、心が安らかだったことはない。そのことに疑いの余地はなかったが、問題は、なぜその幸福がわずか一年で消え失せてしまったかということであった。
私は、この点を繰り返し考えてみた。外に向かって求める気持ちが全くなかったからこそ、あの一年は台風の目のように平穏だったのだ。私が完璧に近いまでに無欲だったから、幸福の世界が向こうからやって来て、私を包んでくれたのである。あの頃の私は、所持品に限らず、食べること着ることに完全に近いまでに無頓著だった。未来に対しても、なにも望むところがなかった。私には、あの私立高校に骨を埋める気はなく、いずれは何処かに移るつもりだったけれども、それは先々の話であった。
私は就職した時、親がこしらえてくれた背広一着で満足し、春夏を過ごして冬を迎えた。通勤電車の中で、ある朝ふと(これではあまり見っともないか)とわが身を顧りみるような気分になり、新しい背広を作ろうと思い立った。私の幸福な生活が、音を立てて崩れ始めたのは、その瞬間からであった。私は、個々人の日常が人々の眼ざしに包まれていることに気づいたのである。それは地獄だった。
では、無欲であることが幸福の条件だとしたら、その無欲を支えていたものは何だったのだろうか。目に浮かぶのは、土曜の午後、古本屋から購入した数冊の本をかかえて私が田舎道を下宿に帰って行く光景であった。私はこの時の自分の後ろ姿を、何度も何度も思い描き、私には帰って行く屋根裏があったから無欲であり得たのだと思った。
だが、行く手にあったのは、果たして屋根裏であったろうか。私はこれから読もうとする本の中に向かって、歩いて行ったのではないか。いや、私は読書に没入した時に感じられる、光の靄のようなもので充たされた自分の心のなかへ歩いて行ったのだ。
あの頃、私は「俘虜記」を含む、大岡昇平の自伝的作品を好んで読んでいた。そんな時、大岡昇平を乗せた輸送船や、彼がさまよったフィリピンの戦場が私の心のただなかに彷彿として浮かんできた。「壷中の天地」が出現したのである。土曜の午後、足取りも軽く、私が帰って行ったのは、この「壷中の天地」へだった。ここへ向かって歩む私の一筋の意志が、私の無欲を生み、あの幸福な一年を実現させたのである。
しかし「壺中の天地」は本の中にだけあって、現実の世界は私にとって何時までたっても馴染めない異界だった。私が「壺中の天地」に深入りすればするほど、現世は自分から遠くなり、荒涼とした異界に感じられてくるのだ。
私は、自分が本を逃避の場にしている限り、現世との和解は到底ありえないことを知っていた。そして私は、自分にとって一番肝要なことは、現世の総体を「壺中の天地」として受け入れ、本の世界に入って行くように現実の世界に歩み入って行くことだと承知していたのである。
それから十数年間、いろいろなことがあった。そして40歳になったある日、私はこの世を光に満ちた「壺中の天地」として受け入れる日を迎えたのである。
──当時の教員には日直の義務があり、交代で日曜日の学校に出勤しなければならなかった。六月の終りの日曜日、日直の順番が廻って来たので、私は弁当を持って学校へ出かけた。学校は天竜川をへだてて、自宅とは反対側の台地上にある。学校のまわりは大体が畑地で、住宅は学校の片端にかたまって並んでいるだけだった。
前夜の宿直職員と引継ぎを済ませ、事務室に一人で残されたのは午前九時頃であった。私は事務机の一つに腰をおろし、家から持参した本を開いた。これから電話の番をする退屈な一日がはじまるのである。
だが、私は本を読むかわりに、窓の外を眺めはじめた。窓の外には目を遊ばせるのに手頃な広さの芝生がある。芝生を越えた向こう側には、学校の外廓めぐる土手があり、その手前に桜の大樹がある。
私はその日一日、何もしないで事務室の窓枠にはまった景色を眺めて過ごしたのだ。文字通り一日中、昼食の弁当を食べる時以外、窓外の風景に向けた視線を動かさなかったのである。退屈するどこではなかった。私の心は輝やかしい充溢感で一杯になっていた。
午前中の日光は、桜の梢を越えて東側から芝生に射している。しかし、それは巨大な日時計を見ているように少しずつ角度を変えて移動し、午後になると反対側からの日射しになった。その間に、あるとしもない風を捕えて、桜の枝々は交互に緩慢な動きを繰り返し、病葉がハラハラと芝生の上に落ちて来る。
思い出したように土手の向うの道を人が通る。買物からの帰りの主婦や、これから遊びに出て行く小学生たちだ。子供達は大きな声で喋りながら通り過ぎた。彼らの言葉は、はっきり聞き取れるが、格別その内容について考えることはない。ただ、そのものとして聞いているだけだ。芝生の横の貯水池の方で魚の跳ねる音がする。
風景はあちこちで間断なく動いており、それに応じて私の心も動くが、それだけのことに過ぎない。私の意識は深いところで陶酔の状態にあって、意識表層の動きに左右されないのである。
私は、(世界はこのように存在するのだ)と思った。なべて、あるものはかくのごとくにある。私は過去と未来を一つに貫く通時的な目で、眼前にある光景を眺めていた。自然は永劫にかくのごとくにあり、そして永劫にかくのごとくあり続けるのだ。
やがて日は傾いて、視野の一角を占めているコンクリートの校門は黄昏の色に包まれた。だが、輝やかしい充溢感は依然として続き、深い陶酔の感覚も変ることなく続いた。
精米屋の屋根裏で本に読み耽っている時、私の心の底に光に包まれた「壷中の天地」があらわれた。この心の中のミニチュア世界は、本を読んでいる限り徹宵でも続いたが、それは現実には存在しない架空の世界であった。それが今や、丘の上の学校、現実世界の一角に出現したのである。事務室から望む視野の全体が、壺中の天地になって輝いていた。
充溢感は、現実の世界の只中で、一日中切れ目もなしに続いた。終日充溢感が続いたのは、終日私の内から透徹したものが溢れ出ていたからだと思われた。ゆっくりとした速度で、泉の湧出を思わせるように物静かに、「透体」は私から出て行って、木や草、芝生や貯水池、大地や空を濡らしうるおした。充溢感の正体は、私から出て行った透体、生命のうわ澄みのようなものだった。
この日の経験には、実にはっきり区分される二つの過程があり、第一は事務室の中から窓外を黙視するという予備的な過程で、黙念と目前の風物を眺めているうちに感情が定位置についたのである。
勘定が定位置につくと第二段階がはじまり、静謐に帰した自己の中枢部から「透体」が溢れて来たのだ。私が見ていたのは、風景ではなくて風景という器を充たした透体であり、私は事務室の中で道元のいう「自受容三昧」にふけっていたのである。
(つづく)