──私が就職したのは、東京の下町にある中学高校併設の私立学園であった。レッドパージが吹き荒れている昭和20年代に、学生運動に参加していた私のような人間が東京の学校に就職できたのは僥倖といってよかった。
勤務先の学校は、教職員三十名内外・生徒は男子だけで数百人という小規模校であった。社会科の研究室には新卒で赴任して来た若い教師がもう一人いて、私はこのYという同僚と毎日、机を並べて暮すことになった。眼鏡をかけたYの目には鋭い光があり、作家志望だということもうなずけた。彼は、空き時間に、まるで皆に見せつけるようにして机上に原稿用紙をひろげ、せっせとペンを走らせていた。
「目覚し時計で頭を殴りつけたらどうなるかな」
と突然私に話しかけてくることがある。
「え?」
「今、女が男に抵抗するところを書いているんだ。目覚し時計で殴ったら、男は参っちまうかな」
私は約一年間、Yの生活をつぶさに眺め、作家をこころざす人間の表裏を知った。それは物悲しいものであった。早く世に出たいという野心、書くべきものを持たない不安、それを隠蔽するための虚勢、「文学的才能」という実体の定かでない観念に呪縛されて身を誤って行く若者の夢と現実がそこにあった。
Yはハックリの多い男だったが、自分の生き方に当然つきまとう周囲からの反感や侮蔑を凌いで来たしたたかな強さがあり、そこが常人にない彼の魅力になっていた。
Yの特徴を一言でいえば、「現実蔑視」ということに尽きるのであった。もろもろの社会的義務を無視し、平穏無事な市民生活を頭から拒否したあとに、彼の文学的生活なるものが展開する。私は、その「文学的生活」に感謝しなければならなかったのだ。彼がその放胆な行動によって周囲からの反発、非難を一手に引き受けてくれるお蔭で、勤務先で自分に矢玉が当らないことを知っていたからだ。私も人好きのしない無愛想な男だったのである。
授業が始まって2,3ヶ月もすると、彼は唇をゆがめて先輩教師のだれかれをけなしはじめた。小説を書いている人間だけが持つ観察力で、そしてそういう人間だけが持つ相手の面皮を剥ぐような痛烈な表現で、彼は同僚達を片っ端からやっつけて行くのだ。こんな調子で、自らの感情を行きつくところまで徹底させていったらどうなるであろうか? 犬死をすることになるだけではないか。
こういうYと行動を共にしていると、私の方は逆に、いよいよ醒めた表情を強調することになる。学生運動に参加していた期間を通して、私が公言してきた原則は、負けるとわかっている戦争ほやらない、ということだった。
私は時代に対しても、自分自身についても、ほとんど幻想を持たなかった。私はまわりの人々を眺めて、(ああ、この世は、この人達のものだな)といつも考えていた。校内を見廻す私の目つきは、Yなどよりもっと冷たかったかもしれない。
やがて、Yはあちこちから借金をはじめたらしかった。下宿を次々に変えたり、旅行をしたり、浪費を重ねているうちに金に詰まってきたのである。
私の方はと言えば、月給をもらうとその金を机の引き出しに入れておき、必要に応じて上から一枚ずつ出して使っていたが、次の月給日までに相当額が残るのだ。翌月の給与を残った札の上に重ねて暮しているうちに、いつの間にか引き出しの中の金は、予想外の額になっていた。こうなったのは、私が金を惜んだからではない。私には格別ほしいと思うものがなかったからだ。
私は通勤するために、下宿から最寄りの省線電車駅まで野菜畑が打続く田舎道を二キロ歩かなければならなかった。私は毎日三十分かけてこの道を歩き、授業が終わると、又駅からこの道を歩いて下宿に戻った。まるで、願でも立てたように、繁華な都心には足を向けなかった。
Yがそういう私から一度も借金しようとしなかったのは、小エゴイストとしての私の本性を知っているからだった。革命運動に首をつっこみながら、負けると分かっている戦争をしないと公言するような男など、信じるに足るはずがない。
Yと私は、結局芯のところで互いを評価していなかったのだ。しかし、問題はそれと重なって、その背後にあった。私が、ただで借りた精米屋の物置でのうのうと隠棲することができたのは、Yの強烈な現実蔑視の姿勢を心理的な支柱にしていたからだった。学校という俗悪な社会を、腹の底から侮蔑し切っている男が身近にいるのを見て、私も安心して自分の中に閉じこもることができたのである。
Yは、私に代って私の反俗感情を生きてくれていたのである。それで私は、自分の中にあるもう一つの完全自閉という極を生きることができたのだ。
Yも社会から何も受けないし、社会に対して何も与えない、ロカンタンのような私の生活を目のあたりにすることで、それとは違う無頼の日々を展開できたのではないだろうか。気質も生活も相反する若者が親しくなる秘密は、ここにあった。
Yは一年と持たずに学校をやめて行った。彼は何かへまをやって辞任に追い込まれたらしかったが、いくら金に困っても私に借金を申込んだことのないYは、学校をやめて行く時も、その理由を私に語らなかった。私達のつき合いはそういう性質のものだったのだ。
Yが「石もて追われる」ようにして学校を去って行った頃、私の「幸福な隠遁生活」も終りに近ずきつつあった。(本編は、自著「単純な生活」の内容を補正したものです)
(つづく)