宗教的な修行者が、瞑想中に目もくらむような内的な光を感じること、これは、かなり普遍的な現象らしく、イスラム教徒はこれを「イルミネーション」と呼んでいるという。イルミネーションを体験した者は、それが深い宗教的な感動をもたらすことから、光の正体を自己内部から突出した「真我」と考えたり、身近に来臨した神だと考えたりする(パスカル)。
しかし私は、「イルミネーション」を真自我あるいは神と考えるのは、自分というものを過大視し過ぎることからくる錯覚ではないかと思う。
光を体験する者には、信仰や人生問題で悩んでいる人間が多い。彼らの心には、行動化出来ないエネルギーがたっぷり溜まり、それが限度以上に達すると、逆噴射して自らの内面に隠れているもう一つの意識層を照らし出すのだ。暗く圧搾されたエネルギーが、一挙に爆発して、愛と肯定に満ちた明るい内面世界を照らし出すから、人はその瞬間にイルミネーションのような光を感じる。私はそう考えて、人間の内面には表自己・裏自己・非自己の三層があるという結論にたどり着いたのだった。
だが、次のような反論の起きることが予想される。表自己の裏側にそんなに明るいものがあるとしたら、その裏自己が爆発的に浮上してきて表自己を押し流したと解釈する方が自然ではないか。話としても簡単明瞭になる。
この反論は、「裏自己」あるいは「背景自我」と言表される層が、表自己と同じように強力なエネルギーを持っているという前提に立っている。けれども、「裏自己」「背景自我」は、それ自体ではエネルギーをほとんど持っていない。裏自己は、世界を事実そのままに写し取っている受容層なのである。
ここで挿話をひとつ紹介したい。
「朴烈事件」で逮捕され、死刑を宣告された金子ふみ子は、子どもの頃祖母に虐待されて自殺しようと思った。川に飛び込んで死ぬことに決めた彼女は、着物の袂に砂利を入れ、石を入れた腰巻きを帯のように腹に巻き付け、川岸の柳につかまって、とろりと静まった淵の底を眺めた。
「ああ、お別れだ」
そう思ったときに、彼女の心に山や木や石や花や、まわりの一切のものへの強い愛惜の念が突き上げてきた。自分は、これらの懐かしいものをすべて残して、この世からいなくなるのだ。
不意に彼女は死ぬことを思いとまった。そして、幼いながらに自分が自殺を思いとどまったのは、この世界のすべてのものに対する愛着の故だと思ったのである。
われわれは、「人間が死を恐れるのは自己保存の本能があるからだ」と考えている。だが、それだけだったら、人間はこれほど死を恐れはしない。人の生存欲求を背後から支えているのは、この世のすべてのものに対する愛着の念なのだ。著名な宗教学者は、遺著のなかで、死とは(愛惜する)この世のすべてと別れることだと書いている。世界との別離、これが死なのである。
人間は、自己愛の他に、その裏側に世界愛と呼ぶべきものを持っているのである。この世界愛は、単独で各人の意識に浮上してくることはない。子ども達を餓死させて平然としている独裁者を見て、私達が人道主義的な怒りを感じるのは、われわれに愛する子どもがいるからだ。われわれは、自己愛に誘導され、それを通して、おのがうちなる世界愛を自覚するのである。この世界愛をヒューマニズムと言い換えるなら、ヒューマニズムに照明をあてるのは自己愛であり、自己愛が利己的性格を失って照明体となるのと引き替えにヒューマニズムが姿をあらわすのである。それ以後、自己愛のエネルギーはヒューマニズム層からの反照を受け、その導くままに作動し始める。例えば、「世界全体が幸福にならないうちは、私個人の幸福はない」という宮沢賢治的活動である。
裏自己の存在を疑う人々に問いたい。
人間は、自分の資産や仕事や家族で構成される閉鎖的な小世界だけに関心を持っている。が、その閉鎖的な自己世界をすぽんと引き抜いてみると、そのまわりに遠景として、あるいは背景として、外周部分が残っていはしないか、と。この外周部分が裏自己のとらえている広大な開放的世界の一部であり、その存在を示す証跡なのである。人間は、まず、世界を開放的なものとしてとらえ、その上に閉鎖的な自己世界を描き出している。そして、人はこの自己世界に排他的利己的な愛情を寄せているが、この自己世界を取り除いてみれば、開放的な広大な世界があらわれ、そして、人がこの広大な世界を信受し、これに安心して身を任せているということが明らかになる。
物理的エネルギーを外へではなく、「裏自己」「背景自我」の方へ振り向け、それまで意識されなかった世界愛を照らし出すことによって「イルミネーション体験」が生まれると仮定しよう。すると、私が日直の一日、窓外の風景に「壺中の天地」を感じたのも同じメカニズムからではないかという推論が生まれてくる。
私は事務室の椅子に座り、窓の外に展開する初夏のさわやかな光景を目にした。そして、本を読むこと仕事をすることを一時中止して、まず外を眺めることにした。すると、エネルギーの流路が定まり、エネルギーは静かに四囲の風物に向かって注がれ始めたのだ。私は「照明力」に変化して外界を照らし始めたエネルギーを「透体」と感じ、その「透体」が自己の中からあふれ出て四囲の樹木や山を潤し始めたと思ったのである。
圧搾されたエネルギーが一挙に爆発して世界愛を照らし出せば「イルミネーション体験」になる。エネルギーが一定の速度でゆっくりと流れ出して外界を照らせば、「透体」になるのだ。この両者に強弱の差はあるけれども、世界への愛を呼び起こし、生きることの幸いを強く感じさせる点に変わりはない。
禅僧が座禅をして「定」の状態にはいるのは、「透体」を仮想世界に投与し続けるからではないだろうか。彼らは結跏趺坐の姿勢を取ることによって、エネルギーを定常的に外へ流出させる内面的体制を作りあげる。そして、瞑目して象徴化された世界に透体を注いでいるうちに、世界への愛と信頼が呼び起こされ、座禅を続けている限り、その感情が続くのだ。
「イルミネーション体験」は強烈な至福感をもたらし、「透体投与体験」は世界への愛と信頼を呼び覚ます。だが、イルミネーション体験は稀にしか起こらず、静かな幸福感をもたらす「透体」も、内面的な体制が整わなければ出現してこない。
ここまで来て、ようやく人間は幸福とは何かという問いにぶつかるのである。イルミネーションによる至福感情、透体による幸福感を経過して、初めて幸福とは何であり、幸福への道は存在するかという真正の問題意識を持つようになるのだ。「イルミネーション体験」を得ることはゴールではない。この体験は、人間の本性に関する思索と反省の契機を提供し、幸福に関する既製観念の誤りを正してくれる点で意味があるに過ぎない。
われわれの考える幸福とは、不幸と対比される感情であり、自分が不幸から抜け出たり、周囲に不幸な人々を見たりしたときに感じられる相対的な情念だ。「イルミネーション体験」「透体体験」がもたらしてくれる幸福感も、平凡でダルな日常から跳出して光彩陸離たる別世界を見せてくれるという意味では、相対的かつ世俗的な幸福感にすぎないのである。
真の幸福は、世間的な幸・不幸を超越し、その枠外に出たときに生まれて来るものだ。どういう状況に置かれようと、それをありのままに受け入れて動じない人間が幸福なのである。事実を事実として受け入れ、個人の能力の許す範囲で、現状打開のために努めること、これが本当に幸福な生き方なのだ。
そして、こういう意味での幸福に至る道は、万人の前に用意されている。
私達は、「共同幻想」にとらわれて生きており、その有様は「唯幻論」という言葉が通用するほどだ。幻想やそれに基づくイメージは、エネルギーを呼び寄せ、これをストックする容器の役割を果たす。幻想に取り付かれた人間は、表自己に歪んだエネルギーを溜め込み、奇怪な行動に出る。表自己内に固着した歪んだエネルギーが、裏自己への目をふさいでしまうからだ。
しかし人間は経験を積み、学習を重ねることで、徐々に幻想から解放されて行く。すると幻想の中に閉じこめられていたエネルギーが、事実を正しくとらえる認識力に変わり、つまり裏自己の把持する「事実唯真」世界を照らし出す力に変わり、私達を真の幸福に導くのである。
かくて人間がたどり着く究極的な姿は、次のようなものになる。表自己・裏自己の位置が逆転し、裏自己が前面に出て表自己の擁するエネルギーは世界意志の実行者に変質するのである。釈尊やイエスなどは、こうした究極形に達した人間を映像化したものと思われる。