甘口辛口

相撲への開眼

2007/3/23(金) 午後 1:31

(栃東をやぶる白鵬)

数日前、録画しておいたドキュメンタリー番組を見ていたら、相撲に関する見方が変わった。その番組には、白鵬がバスケットをする場面が出ていて、これを見ているうちに大袈裟にいえば、相撲について少しばかり開眼するところがあったのである。

それまで、相撲の勝敗を決めるのは、力士の性格ではないかと思っていた。
私は格別相撲のファンではなく、大相撲には世間並みの興味しか持っていない。それでも、長い間には、勝負のポイントのようなものが頭に入っていて、力士には、それぞれ独自のスタイルや得手(えて)があり、相手の得手を封じて自分有利な組み手になった方が勝つということくらいは理解するようになっている。

従って、同格の力士が戦えば、どちらが得意の組み手になるかで勝敗は決まってしまう。
では、自分有利な組み手になるには何が必要かといえば、性格ではないかと思っていたのだ。歴代の名横綱といわれる力士には、共通した性格がある。先代若ノ花の荒稽古は有名で、彼は稽古相手の弟弟子を情け容赦もなく土俵に叩きつけていたというし、北ノ湖は本場所で対戦相手を寄り倒したあと、負けた相手に一瞥もくれず、相手を助け起こすために手を差しのべたことなど一度もなかった。

情け容赦のなかった点で、千代ノ富士も例外ではなかった。ウルフという呼び名をそのまま、彼は本場所でも稽古場でも対戦相手を完膚無きまでに叩き伏せていたのである。それで、彼ら大横綱には「憎々しいほど強い」という決まり文句が冠せられていた。

こういう事例を見ていると、力士に必要なのは一瞬も手をゆるめない攻撃的な性格ではないかと思われてくる。先手を取るのは激しい性格を持った力士で、温厚な力士はどうしても不利になるようにみえる。しかし、それ故に穏和な性格の力士に好意を持つファンが出てきたりする。

魁皇が人気を集めているのも、その風貌や取り口に人の良さそうなところがあるからなのだ。その魁皇を小型にしたような相撲取が若の里で、私は何時しか彼を声援するようになっていたのだった。

若の里は、幕内力士の中にあって実力抜群と評され、大関に昇進することが確実視されていた。だが、毎場所、もう一歩の所まで行きながら、つまらぬ負け方をして星を落とし、昇進を見送られることを続けてきた。そのうちに彼は、故障や体力の衰えもあって十両まで落ちてしまう。最近盛り返してきてやっと幕内になったものの、現在の地位は幕尻の16枚目なのだ。

ファンとして若の里の相撲を見ていると、(その性格、何とかならないかね)という気になる。他の力士は、有利な組み手になろうとして、こすっからい駆け引きをする。時間が来ても、わざと「待った」をして相手の気をそらしたり、逆にまだ呼吸が合わないうちに突っかけて相手を動揺させたりするのだ。ところが若の里は、そんな駆け引きをしたことは一度もない。相手が突っかけてくれば、自分の体勢がまだ整わないのに立ち上がって、不利な組み手のまま戦ったりする。

若の里に、せめて千代の富士や朝青龍の性格の十分の一でもあれば、彼は今頃、在位十数場所の貫禄大関になっているはずなのだ。

そんなふうに考えていた私は、バスケットをする白鵬を見ていて考えを変えたのである。あの肥った体で白鵬が、飛燕のようにコートを駆けめぐるところをみて唖然としない相撲ファンはいないのではなかろうか。ボールを抱えた白鵬は、大手を広げてブロックする相手選手の腕の下を体をたたんでかいくぐるのだ。その素早い身のこなしは、本当に空を飛び交うツバメみたいであった。逃げる振りをして、くるっと体を反転させてシュートするところなど、プロのバスケット選手顔負けの俊敏さだ。

私は、性格が行動を生むと思っていた。が、両者の関係は、実は逆で、行動が性格を作るのかもしれなかった。先代若ノ花から北ノ湖に至るまで、大横綱達は皆卓越した運動能力を持っていた。だから、それを駆使するうちに攻撃的な性格になったのだ。彼らの人もなげな強烈な性格は、じっとしていても感じられる自らの身体能力への揺るぎない自信から来ている。

相撲には、押し出しや突きだし、投げや叩き込みなど少数の勝負手しかないように見える。子どもでもマスターできそうな単純な方法しかないように見えるのだ。だが、実際はこれらを身に付けるには、高度な身体能力と運動神経が必要なのである。

抜群の成績を残している朝青龍の性格特性は、彼のたぐいまれな身体能力と不可分であり、その運動能力、その行動特性が彼独特の性格を作ったのだ。

白鵬は年齢に似合わぬ落ち着いた性格を持っているといわれる。これも彼の身体能力が生んだ産物なのである。ということになると、若の里のおっとりした性格は、身体能力の不足から来ているのだろうか。その可能性はあるけれども、ファンはそうは考えたくないのである。それがファンたるものの心意気なのである。