矢吹丈が力石徹よりすぐれているところとは、周囲の人間を自分のペースに巻き込み、彼らを活気づかせる能力をそなえている点なのだった。彼は落ちぶれて酒に溺れていた丹下段平を蘇生させ、臆病者だったマンモス西に勇気を与え、そして、貧民街のちびっ子軍団に元気をもたらした。ジョーとふれ合うことで、人々は新しいエネルギーを吹き込まれ溌剌と行動し始めるのだ。
それだけではない、TVで「あしたのジョー」を見た学生たちにも安保反対のデモに繰り出す勇気を与えていた。昔の学生は、マルクス主義の解説書を読んでデモに繰り出したが、全共闘世代の学生たちはエンゲルスの「空想より科学を」を読む代わりに、漫画本の「あしたのジョー」を読み、これをエネルギー源にしたのである。
原作者は、けんかっ早い性格に加え、他人の真情を感じ取るナイーブな性格を矢吹丈に付与している。ジョーに自分が悪いと悟れば心機一転、直ちに行動を改める少年の純情さを持たせたのだ。当初、矢吹丈が守ろうとした自由とは、好き勝手なことをする悪ガキの自由に過ぎなかった。が、ボクシングに打ち込むようになってから、彼は自己実現を目指して戦うようになり、その生活に一本筋が通ることになったのだ。
周りの人間を自分のペースに巻き込んでしまうジョーの魅力は、ストイックな力石徹さえ動かし始める。力石も又ジョーからエネルギーを吹き込まれ、兄が未熟な弟の要求を受け入れるように、ジョーが望む対戦を承知したのだ。そして、ウエルター級の体格を持ちながら、バンタム級まで体重を落とすという狂気に近い企てに乗り出すのである。
矢吹丈は、女性にも影響力を及ぼしていく。
ジョーとマンモス西は、丹下段平の開設したボクシングジムで練習に励みながら、収入を得るために近所の食料品店で働くことになる。やがて、その店の一人娘・紀子(キコではなくノリコ)はジョーを愛するようになる。
力石のパトロンだった白木葉子のジョーに対する感情は微妙で、原作者はこの点についてハッキリしたことを書いていないという。劇場版「あしたのジョー(2)」には、白木葉子がジョーに愛を告白する場面があるが、これは映画監督が創作したものだそうである。
原作者の梶原一騎は、作品に厚みを持たせるために問題を未解決のまま残しておくという手法を採用しているのだ。パンチドランカーになってもなお戦い続けるジョーは、作品の最後に激闘の末、崩れるようにリング内の椅子に座って動かなくなる。一体、彼はどうしたのだろうか。ジョーは、宿敵力石徹のようにリング上で命を落としたのか、それともまだ生きているのか。
作者が何も語ろうとしないので、現在になってもジョーが死んだかどうかファンの間で論争の的になっている。
力石とジョーに対する白木葉子の感情についても、作者は何も語ろうとしない。
葉子がジョーに関心を持っていると力石が見破る場面も出てくるけれども、それが本当なのか、力石の邪推なのか、作者はあえて明言しないのである。
通俗路線で「あしたのジョー」を描こうとしたら、物語は力石の死でもって終わるはずだった。紀子はマンモス西と結婚し、葉子はジョーと結ばれ、四方八方目出度し目出度しとなるはずなのである。ところが、ジョーは力石の死後、世界各地のプロボクサーと破滅的な戦いを続けボロボロになってしまう。そういうジョーを女たちは必死になって引き止めようとするが、効果はない。
作者は現世の幸福を無視して破滅に向かって突き進むジョーや力石の行動を、二人が女性の入っていけない「男の世界」に生きているからだと説明する。これが作者の用意した最後の回答なのである。
この物語の持つ矛盾や非合理は、「男の世界」という一言で合理化されるのだ。そして、葉子や紀子は、このテーゼの前で返す言葉もなくうなだれる。
梶原一騎がすぐれたストリーテラーであること、そして彼がこの作品で通俗路線を超えた文学的な作品を目論んでいたことを認めよう。しかし、「あしたのジョー」を文学的な作品にするためには、「男の世界」なるものを持ち出して、これを神秘化したり美化したりすることで、万事終わりととしてはならない。「男の世界」とは、子供っぽい自己陶酔で塗り固められた不毛の世界かもしれないではないか。
「男の世界」の内実を明らかにするためには、人間の心に潜むニヒリズムを捉える必要がある。わが国の大衆文芸のなかには、丹下左膳・机竜之介・眠狂四郎など一連のニヒリストの系譜がある。我々日本人は、どうしてこれらのニヒリストに惹かれるのだろうか。問題はここにあるのだ。