(写真は藤枝静男の署名)
小説本は古本屋で買うことにしているけれども、藤枝静男の著作集(6巻)だけは、刊行と同時に書店に注文して新本で購入した。藤枝静男のファンだったからだ。書店から第一巻が届いたときに驚いたのは、本に著者の署名が入っていたことだった。表紙を開いたら開巻三枚目が、薄い半透明の和紙になっていて、そこに筆書きで「藤枝静男」と署名してあったのである。落款も押してあった。
二巻目以降にも筆書きによるサインがあったが、最後になると、さすがに根が続かなくなったらしく、手彫りの印形に変わっている。こんなところに藤枝の実直な性格が遺憾なくあらわれている。推測するに、彼はこんな風に考えたのではなかろうか。
(6巻の著作集は、寡作の自分にとって個人全集に代わるものになるのではないか。自分が死んだとしても、全集が刊行されることはないだろう。としたら、この本を注文してくれた読者に対する謝意の表明として、全部の本に署名することにしたらどうだろうか)
この推測が当たっているかどうか分からない。だが、初刊本のすべてに署名するという、考えただけでも気の遠くなるような作業をあえてやろうとしたところに、藤枝静男の面目があるのである。
藤枝の作品のうち、「家族歴」と「一家団欒」が最も印象深かった。
芥川龍之介に、「点鬼簿」という作品がある。点鬼簿とは、死者の名簿という意味で、彼はこの作品の中に、狂人だった母や、幼くして死んだ姉、それから伯母や父の面影を書き留めている。
藤枝の短編「家族歴」も、彼のものした点鬼簿であり、結核という病気に呪われた藤枝家の死者たちの行状を書き留めた墓碑銘だった。
私が子どもの頃には、「あの家は肺病のトウ(家系)だ」といわれる家があった。今では、結核は家族感染によるのであって、遺伝病でないことが明らかにされているけれども、当時、結核は血統だと信じられていたのである。
藤枝静男は7人兄弟姉妹の次男に生まれている。このうち5人の兄弟姉妹が結核のために次々に死んでいるのだ。感染源は薬局を経営していた父だと思われる。63歳で脳溢血のために死んだ父は、若い頃に結核を病んで喀血したことがある。彼はその後、病気を完全に治したと思いこんでいたが、実は生涯結核菌は彼の体内に住みついており、生まれてくる子供を相継いで病気に感染させていたのである。
「家族歴」には、哀切なエピソードがいくつも並んでいる。次に述べる挿話は、藤枝が5歳のときに12歳で死んだ姉のナツが、藤枝に話しかけるところから始まる。初夏のある日、裏庭で幼い二人が一緒に並んでいるときだった。
<「ねえ静ちゃん」と姉が細い弱々しい声で云った。「何かほしいものがあったら、あげるよ」
私は、「十銭おくれ」と云った。すると姉は小さながま口を着ぶくれた懐から出し、十銭銀貨を私の掌にのせた(「家族歴」)>
自分の余命が僅かしかないと感じると、人は大事にしていた所持品を惜しみなく他人に分け与えるようになる。12歳で死んだ姉も、本能的に死が迫っていることを感じていたのである。
亡くなった兄姉の思い出がいくつも語られている中で、藤枝が最も心を込めて書いているのは5歳違いの兄秋雄の思い出なのだ。兄が結核で死んだあと、彼は何も手がつかなくなる。
<・・・・頭の中は兄に対する執着で充満し、他のことは全く考えられなくなっていた。その生涯を追想するとか、何を考えるとか云うのでなくて、ただ頭の全部に懐しい兄の姿がつまっているのであった(「家族歴」)>
「一家団欒」を読むと、兄への思いがこれほど強かったのには理由のあったことが分かる。(「一家団欒」は、死んだ藤枝が父や兄、姉が眠る墓の中に入り、そこで死者達と一家団欒の集いを持つという幻想的な作品)
<兄は何時もやさしかった。自分自身は何でも我慢して、みんなを可愛がってくれた。そう思うと章(註:作者)の眼からまたしても涙が流れた。
「僕は兄さんにも悪いことばっかりして、悪かったやあ」
と云って彼は泣いた。
彼は、高等学校のとき、兄が自分の乏しい小遣いをためてみな章にくれたことを後悔の念をもって思い返した。彼は何時もそれをチップとして下らないカフェの女にやった。兄が結核にかかっ大学を止め、絶望的な療養生活に入っていたとき、彼は兄からあずかった顕微鏡を質に入れた。
そして兄がやっとの思いで父から貰うことのできた50円の写真機代を猫ばばして、20円の中古品を送り、余りをカフェ通いに使ってしまった(「一家団欒」)>
兄ばかりではない、藤枝自身もまた妹に深い愛情を注いでいる。こうした愛と信頼で固く結ばれた一家団欒が、どうして生まれたのだろうか。家族のために心身をすり減らして働く父の背中が子ども達に影響を与えていたという面もある(藤枝は父について繰り返し書いているけれども、不思議なことに母については何も触れていない)。
弟妹に対する兄の深い思いやりは、彼が長兄として次々に死んでいく弟妹を間近に見ていたからではなかろうか。病気に翻弄され、何がなんだか分からぬままに死んでいく可哀想な弟妹たちを見ていると、残ったきょうだいたちには出来るだけのことをしなければならぬという気になるのだ。
当時、結核は治療の方法のない業病と見なされていたから、病気になると患者は怪しげな民間療法の標的とされ、無用な苦しみを強制された。私も結核で自宅療養中、灸をすえられたり、蛇の生き血を飲まされたり、正体不明なものを食べさせられたものだった。藤枝家の子ども達も、そうした療法の犠牲にされていたのである。
藤枝家では、狭い寝部屋を閉め切ってウナギの頭を燻してその煙を吸い込ませるとか、冷水摩擦をさせられるとか、いろいろな療法が行われた。藤枝に十銭をくれた姉も、風邪を引かせてはならぬという医師の命に従って、夏でもメリヤスのシャツを二枚着せられ、毎日一時間余りの日光浴をしていた。そして、痩せてしなびた顔を日焼けで真っ黒にしていたのだった。
挙げ句の果て、医学部で医者になる勉強をしていた兄自身まで、熱が出たときに胸に生魚のひらきを貼られるという仕儀になる。
<それまで様々の人から持ち込まれた「お札」「お水」「お饌米」等を、兄は頑固に拒否していた。それは恐らく医学生としての衿持というような心持ちからであったろうが、今は従順に身をまかせるのであった。
(生魚の貼り付けを)勧めた男が、庭先に姐板を持ち出して、二寸乃至五寸の鮒を片端から器用にひらいた。そしてそれ等を油紙の上にびっしりと並べ、父に手伝わせて兄の背胸に巻きつけ、上からネルで被った。やがて高い体温と暑熱に蒸れた、何とも云い難い生臭い悪臭が病室内に充満し始めた。兄の顔は、初め冷たさから蒼く鳥肌立ち、それから苦痛に歪んだ。
生魚は腐臭を放ったまま翌朝まで置かれた。そしてそれを取除いた後いつまでも、私達は一歩室内にはいるとその吐き気を誘うような臭いに胸がむかついてくるのであった(「一家団欒」)>
兄は、こうした民間療法で生気を吸い取られ、灯が消えるようにして死んで行く弟妹を眺め、やり場のない哀憐の情に包まれたのだ。
多くの兄弟姉妹を死出の道に送り出した藤枝は、結婚したら今度は妻が結核を発病するとという憂き目にあっている(妻の病気を題材にした作品に「路」がある)。
藤枝静男の文学は、兄や姉、そして弟妹の死を眺めてきた過去の上に構築されている。彼の強靱で粘り強い作品は、こうした境遇と不可分の関係にある。