(写真は藤枝静男)
また例の病気が出て、インターネット古書店を通して、「平野謙全集」18冊を購入した。平野謙は、坂口安吾や伊藤整と親交があり、この両者の著書によく登場する評論家である。私はこれまで、平野の評論をいくつか雑誌で読んでいたけれども、彼の著書を持っていなかったのだ。
段ボール箱に入った全集が届いたとき、先ず調べたのは本の活字の大きさであった。箱を開けて、早速一冊取り出して調べてみる。本は二段組みで印刷され活字がぎっしり詰まっているが、文字はそれほど小さくはない。ほっと安心して自室に戻って読んでみる。しかし、やはり駄目だった。薄いインキで印刷されているのである。ものの一ページも読んだら、もう目が痛んできた。
そこで、スキャナーで本の活字を読み取って、ディスプレイ上に映し出すことにした。今日に至るまで、私は細かな活字を読むための方法をすべて試みてきている。だが、いずれも一長一短で、長続きしたものはひとつもない。弁当箱ほどの拡大鏡を取り付けた読み取り装置を二種類購入したし、帽子の庇にレンズを取り付けたものを通信販売で買ったこともある。だが、それらを使って本を読んでいると眼精疲労に襲われ、長時間読み続けるのは不可能なのだ。
スキャナーで読み取った文字を映し出すのに、パソコンと併用できる液晶テレビを利用した。ディスプレイの大きなものがいいと考えたのである。32インチの画面一杯にページを映したら、難なく文字が読める。しかし、つづけて読むためには、新しいページを映す都度、表示のための設定をやり直さなければならないから、ひどく時間がかかる。普通に読む場合の、二倍の時間を要するのだ。
とりあえず、全集の一冊をスキャナーに掛けて、平野が藤枝静男を論じたエッセーを読んでみる。私は藤枝静男が好きなのである。
平野謙は、藤枝の作風を論じるに当たって、彼が中学時代を「人格教育をほどこすスパルタ式の学校」で過ごしたことを重視している。平野によれば、この学校はなかなか風変わりな教育をしていたらしいのだ。
藤枝が学んだ学校は、まるで禅の修行道場のような厳しい訓育を行いながら、その一方で生徒の自由を尊重しているのである。例えば、購買部には番人がいないので、勝手に必要なものをとり自主的に金をポール箱に入れておけばよかった。
学期試験には教師がやってきて黒板に問題を書くと教室を出て行ってしまい、時間が来るとまた戻ってきて解答を書き、生徒はそれによって自分で自分の答案に点数をつけ、先生に名前を呼ばれると、自分の点数を答えて記帳してもらうことになっていた。
答案用紙はそのまま持ち帰るのだから、嘘をついても決してバレる気づかいはなかったが、不思議にも誰一人不正直な返事をするものはなかった。
この学校では非人間的なばかりの厳格さと、極端な自由との混合した不思議な教育が行われていたのである。
私は平野の文章に興味をかられ、この学校のことを更に詳しく知るために藤枝静男自身の著作集に当たってみることにした。すると、この学校が東京池袋にある「成蹊実務学校」という三菱財閥から資金援助を受けている学校だったことが明らかになった。若い頃にイギリスで少数人格教育を受けた岩崎久弥が、自分が受けてきたようなイギリス風の人格教育を日本にも根付かせようとし、旧友の中村春二にこの学校を運営させたのである。
藤枝静男の「少年時代のこと」という随筆から、この学校に関する記事を引用してみよう。
<(生徒は全員が寄宿舎に入れられていた)寄宿舎といっても九人一組で、三つの部屋に便所と台所のついた小さな一戸建てに住んで自炊するというやり方で、そういう家が九軒、畠をかこんでたっていた。入学するときの必携品目にバケツ一個、雑巾十枚という指定があったのはこのためで、はいってから別に小型の鍬を買わされたのも畠をたがやしてナス、キュウリ、大根というような簡単な作物をつくるためのものであった。
放課後の二時間がこの畠仕事にあてられていて、便所の汲み取りや堆肥作りも自分たちの手でやった。二人一組交替でめぐってくる食事当番も、小学校を卒業したばかりの少年にとってはつらい仕事であったし、また校外の商店に行って魚や肉や豆腐を買うことも恥ずかしくていやなことであった。
白木綿紺縦縞裏付きの、頭からかぶるダンブクロみたいな服が制服で、靴は水洗いがすぐできるということでゴム短靴を奨励されていたから、外出はいっそう苦痛であった。
五時に起き、五時半に三十分の駈足、(夜の)十時に眠るのであるが、その間に「凝念」と名づけられた座禅のような時間が二回あり、それがすむと「心の力」という八章から成るお経のようなものを、一章ずつ合唱することになっていた。冬は裸体、夏は綿入れを着てそれをやる。冬の朝など、駈足が終わったあと園長の命令で薄氷の張った構内の池にとびこまされることもあった>
生徒達は、年に一回、三日間の断食をしなければならなかったが、二日目の夜、空腹に耐えきれなくなった生徒が畑の大根をかじって退学させられるようなこともあった。
こういう学校だからカチカチの右翼教育を施すかと思うと全く反対だった。軍事教練の先生は、暴力を否定するクリスチャンだったのである。
学校は生徒に対して暴君として臨む半面、子どもを一人前の人格を持つものとして信用するとという善意をもって対していたのである。生徒は、教師が善意を持って臨めば、それに応えるものなのだ。私も伝統校なるものに赴任して驚いたことがある。その女子高校では、実力テストなどが教師の監督なしに行われていた。
教師はテストがはじまると問題用紙を配布して、さっさと研究室に引揚げてしまうのだ。すると、テスト終了後に、当番が答案を集め、きちんと名簿順に揃えて研究室に届けに来る。朝のショート・ホームルームの伝達事項は、ルーム長が廊下の掲示を見て済ませてあるので、担任はただ教室に顔を出すだけでよい。ルーム長はまず、ノンキなとうさんを支えるしっかり者の長女といった風だった。
平野謙は、藤枝静男のストイックな作風が中学時代をイギリス式人格教育を行う学校で過ごしたことに由来するのではないかと推測する。芸術作品と作家の実生活の間にある種の関連を認める平野は、こんな風にして藤枝静男の作品を分析して行くのである。
しかし平野謙全集をそれ以上読んで行くことは出来なかった。スキャナーを使って読んで行けば目は疲れない。だが、ページをディスプレイに呼び出すまでの操作が煩わしく、本を読み続ける気持ちが萎えてしまうのだ。最初に条件を設定しておけば、その後の操作の必要はなく、新しいページをガラス面にふせて乗せるだけでディスプレイに紙面が現れるというスキャナーはないのだろうか。
いくつになっても、本は私達に新鮮な知識を与えてくれる。だが、年を取ると本を読むのに困難を感じるようになる。これを介助する機器があらわれることを、高齢者は待ち望んでいるのだ。