以前にビデオテープに録画しておいた洋画を見ているうちに、面白い作品にぶつかった。「アバウト・ア・ボーイ」という映画である。題名は「少年について」となっているけれども、主役は少年ではなかった。間もなく40になろうとする独身男を主人公にした映画なのである。
外国の小説や映画には、しばしば孤独な独身者や老人が登場する。彼らを主人公にした作品にはいくつかのパターンがあり、その一つがディケンズの「クリスマス・キャロル」型の物語なのだ。社会に背を向けて生きていたスクルージ老人が、人間らしい気持ちに立ち戻って世の中と和解するという筋立てのこの小説は、その後、同様の趣向を持つ多くの作品を生みだして来た。
「アバウト・ア・ボーイ」も、「クリスマス・キャロル」型の映画で、主役はウイルという38歳の男である。彼は、これまでに一度も就職したことがない。父親が大ヒットしたクリスマス・ソングを作曲してくれたお陰で、その印税が黙っていても懐に転がり込んでくるからだ。ウイルは、この特権を生かして自己完結的な生活システムを作り上げ、その中でぬくぬくと暮らしているのである。
彼は、一日をいくつものコマに細分し、テレビを見るのに幾コマ、ビリヤードをするのに幾コマという風に時間を分野別に配当している。こうすれば生活が秩序立って、トラブルの発生する余地はないし、ストレスに悩むこともない。
しかし、困ったことが一つある。彼も男性だから、ガールフレンドがいる。ところが、このガールフレンドとの付き合いが長くなると、女達は必ず結婚を望むようになるのだ。だが、結婚すれば、幸福な独身生活は終わりを告げることになるから、彼は言を左右にして逃げる。すると相手は判で押したように怒り狂って、「無駄にした時間を返せ」とか、「空っぽ男」とか罵って去って行くのである。
さて、映画はウイルが、既に世帯を持っている妹の家を訪ねて、早く結婚するように勧められるところから始まる。ここで、ウイルが気の弱そうな目つきをした優男であることや、妹の子どもに笑顔を見せているけれども、実は子どもが大嫌いであることなどが紹介される。
ウイルは妹に勧められて、シングルマザーの女性とつきあうことになる。そして、子持ちの女が、自分にとっていかに具合のいい相手であるかを悟るようになるのだ。子持ち女は、子どもという足かせがあるから、べたべたまとわりついてこないし、彼に結婚を強要することもない。
彼はシングルマザーという金鉱を発掘するために「シングルペアレントの会」に入会する。この会には、夫のいない子持ち女がたくさん集まっているのである。ウイルは、妻に逃げられて、男手ひとつで2歳の子どもを育てていると自己紹介して、女性会員の同情を集める。だが、いいことばかりではない。彼はこの会に入会したことで、マーカスという少年に追い回されることになるのだ。
マーカスの母親も「シングルペアレントの会」に入会している。彼女は原始人のようなファッションで人目を集めているヒッピー女で、定期的に鬱病の発作に襲われ、自殺未遂事件を起こしている。マーカスは、自分一人ではとても母を守りきれないと感じ、母と自分の他にもう一人を加えて三人の世界を作らなければならないと考えてウイルに目星をつけたのである。彼はウイルに初めて会ったときから、相手が子どものいない独身男で、女をあさる目的で会に参加していることを見抜いていたのだ。
マーカスは、先ず、一週間ウイルのあとをつけ回して、相手に子どもがいないことを確かめてから、ウイルを訪ねる。そして、マーカスは、何度相手から追い返されてもスッポンのように食いついて離れないのだ。彼は、自分と友達になってくれなければ、ウイルに子どもがいないことを皆にばらすと脅迫する。
ウイルは根負けして、少年が下校後に自宅に立ち寄ることを許し、更に、少年の家で開かれるパーティーにも顔を出すようになる。マーカスは、出来ればウイルが母の恋人になってくれることを期待していたが、この願いは充たされなかった。
マーカスの誘いに乗ってパーティーに参加してから、ウイルの心境に微妙な変化が現れるようになった。彼はそれまで、人間は大海に散らばる孤島のように相互に孤絶した存在だと考えていたが、島と島をつなぐ鎖があることを知るようになったのである。彼が心を開いて生きるようになると、自然に人が集まってきて新しい交友の輪がうまれる。そして、ウイルは、生まれてはじめて自分から結婚したいと思うな女性にめぐりあうのである。
──こうして話はハッピーエンドへと進んで行くのだが、この映画の魅力は細部にまで目が行き届いているところにある。例えば、ウイルの父親はクリスマスソングで成功してから、それよりもっと優れた音楽を作ろうとして一生を空費した人物とされている。マーカスの学校生活の描写も気が利いていて、男の子達を配下にしている女ボスがマーカスの保護者になる場面などにも工夫が凝らされている。
洋画を見ることが止められないのは、時々こうした作品にぶつかるからなのだ。