甘口辛口

耕治人の妻(その2)

2007/6/11(月) 午後 4:28

(写真:耕治人夫妻)


耕治人は、自らの結婚生活について次のように書いている。

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<ひろ子と結婚したときは、シャレた家にいた。新婚気分を楽しんだ。まったく新婚気分は素晴らしかった。

それは自分が得た妻の精神、肉体から生ずるものだ。フクイクたる香り。酔っばらって理性をなくした。そんな生活が二年ばかり続いたようだ。歓楽の空しさを知ったというと気がきいているが、無駄使いで生活が行きづまった、と言った方が当たっている。

三浦半島までハイヤーを飛ばしたこともあった。富士山麓のヤマナカ湖に行ったときは、運転手と車を四、五日借り切った。バカなことをしたもんだ。いまなら、そんなことはなんでもない。大阪、神戸までだっ車を飛ばす。日常茶飯事だ。

しかし、昭和十年ごろは事情が違う。えらい贅沢だった。賢い人間なら、そんな生活は一日でたくさんだろう。最初からやらないかもしれない。それを二年も続け、金がなくなって気づくのだから救われない。(「一条の光」)>

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こういう贅沢な生活を可能にしたのは、夫婦揃って「主婦の友」社を退職し、手元に二人分の退職金があったからだし、また、耕治人は故郷の熊本に亡父が残してくれた田畑・山林を持っていて、これを少しずつ売り払っていたからだった。それらを彼は二年で使い果たしてしまったのである。

しかし耕治人は、この間、うつけたように金を浪費していただけではなかった。彼が熊本を出て東京にやってきたのは画家になるためだった。それで就職する前に美術学校を受験したり、中川一政画伯のもとで玄関番兼弟子になって修行したりしていたのだ。結婚後も彼は絵の勉強をつづけ、「新婚気分を楽しむ」かたわら画家として立つために懸命に努力していたのである。彼は雑誌社を辞めてから、作品を三回公募展に出品している。

にもかかわらず、彼の試みはことごとく失敗に終わる。美術学校には不合格になるし、公募展にも落選が続き、耕治人は遂に画家になることをあきらめ、文学への転身をはかるのだ。彼の無謀ともいえる浪費行動は、自分の才能への不安、居食いの生活への不安を忘れるためだった。

手持ちの金を使い果たした耕治人は、「シャレた家」の家賃が払えなくなり、安アパートに移ることになる。妻は生活費を稼ぐために、大学進学の夢を捨てて就職し、事務員になった。耕治人は妻の稼ぎに依存しながら、今度は作家修行に乗り出すのだが、時代は太平洋戦争の前夜だった。作家志望の新人に発表の場を与えてくれるような雑誌社は、何処にもなくなっていた。

それでも彼は妻を勤めに送り出したあと、机にしがみついて原稿を書き続けた。こういう耕治人を中島和夫は、「聖なる愚かさ」と評している。耕治人をよく知る中島は、「耕治人には、おどおどして卑屈と取られかねない遠慮深さがあったが、他面、うとましいほどの押しの強さがあり、しつっこく自らを言い張った」ともいっている。この「うとましいほどの押しの強さ」でもって、耕治人は発表の当てのない私小説や詩をやむことなく書き続けたのである。

耕治人が無名時代から死に至るまで、飽きもせずに私小説を書き続けたのは何故だろうか。私は中野重治、藤枝静男、車谷長吉などの私小説を好んで読んできた。彼らの作品は、私小説とは言いながら、いずれも立体的に構築され、濃密に着彩されている。けれども、耕治人の私小説は生活記録のような平面的な図柄で描かれ、水彩画のような淡泊な筆致でつづられているのである。こんな写生文のような単調で平板な作品を、あえて生涯コツコツ書き続けた理由は何だろうか。

その秘密を解く鍵が、「一条の光」という作品のなかにある。この短い作品の冒頭で、耕治人は人生の妙味について語っている。

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<私の友人に釣り好きがいたが、獲物はいつも少なかった。ゼロのときが多かった。好きなら、それでよいわけだ。

ところが、ある日、会得した。なにを会得したか、ひとロには言えない。釣りの妙味とも言うべきだろう。それから釣りを楽しむようになった。態度でわかった。獲物にこだわらなくなった。釣れても釣れなくてもよいのだ。

ところが不思議なもので、そうなると、よく釣れた。しかし深入りはしない。いいところでやめ、腰を下ろし、あたりを眺めるのであった。悠々たるものだ。>

                  * 

彼は、この話を持ち出して、人の一生には「人生の妙味」を会得する瞬間があるといい、それから自らの体験を語りはじめるのである。

その日、耕治人はいつものように妻を勤めに送り出してから、机に向かってせっせと原稿を書き始めた。自らの体験やら空想やらを思いつくまま手当たり次第に書いているうちに、時間の観念を失い、一種の無我の境地に入った。今までに、そういうことが時々あったのだ。

ペンを置いて、ふと四畳半の部屋の真ん中あたりを振り返ったら、小指の先ほどの鼠色のゴミが眼に入った。そのゴミが一条の光を放っていた。その光は、彼の過去と現在を、父母と兄妹を、彼の生涯を照らしているように思われた。その光は、慈悲の光で彼の生涯を照らし出していたのであった。

その瞬間の感動を彼はこう書いている。

<私はワナワナ震えた。身動きできなかった。コレダ!と思ったのだ。それまでも自分のことを書いたが、自信はなかった。そのとき必然性が生まれたのであった。>

若い頃に牧師になろうとしたこともある耕治人は、この時、憎嫉の念に突き動かされて来た自分の人生に聖なる光がさしていることを感じ取ったのである。彼は事実そのままの私小説を書こうとしてきた。それは実は、汚れた過去を浄化するためであり、生きることの中に潜む微妙な機微と神秘を表現するためだったのだ。彼が私小説を書いて来たのは偶然ではなかった。

彼は自らの過去を包み隠すことなく書き留めているうちに、これまで自分とは無関係だと見過ごしてきたいろいろな人々に救済されて来たことに気づいている。彼らが恩人だったというのではない。一歩踏み出していたら、疾走してくるクルマにひき殺されるところを、脇にいる人間に気を取られて立ち止まっていたために助かったというような意味で、周囲にいた人々の存在に助けられて来たのである。

成人してからの耕治人が、何かの宗教を信じていたようには見えない。そして作品にも、そうした臭いを感じさせるものはない。だが、宗教的なものを全く感じさせない耕治人の作品は、それ故にかえって読む者をして意識の深みで宗教的な気配を感じ取らしめる。読者は、神と共に人間の生の営みを俯瞰しているような気になるのだ。

「命終三部作」の人気が高いのは、こういう感じを特に強く与えるからではないだろうか。

(つづく)