(耕治人:千家元麿の墓前で)
耕治人が社会的失格者といっていいほど生きることに拙だった点については、多くの証言がある。例えば、彼は知人の口車に乗って革命後のソ連に渡る計画を立てたことがある。ロシアに渡ったら、何かの仕事を探しそこに永住に近い形で暮らそうというのだが、彼はロシア語が全く出来ないのだ。そんな彼が、国際関係の緊迫しているさなかにソ連に行って、どうやって生きて行く心算だったろうか。
だが、彼は一度思いつくと周囲の忠告には耳を貸さず、パスポートの取得に走り回り、同行する仲間探しに奔走するのである。
こういう常軌を逸したところのある耕治人は、妻の支えがなければ生きて行けなかったにちがいない。耕治人の友人のなかには、妻に全面的に依存して生きる耕治人を「女のヒモだ」と皮肉る者も現れた。
太平洋戦争が始まると、彼は徴用されて中島飛行機製作所の工員として働き始める。そしてこの期間に治安維持法違反のかどで逮捕され、70日間拘留されるのである。これは全くの冤罪だったが、耕治人の妻は夫の拘留期間中、差し入れその他で警察署に通いつづけている。
耕治人は、戦後になってようやく作家として認められるようになる。そうなってからも、彼のかたくなな性向は変わらず、「俗物」川端康成と借地問題で争ったときには、心身ともに疲労の極に達し、睡眠薬自殺をはかっている。この時も、妻は狂気を疑われて脳外科病院に入院した夫を、退院するまで献身的に看護し続けた。
こうして妻に頼り切って生きていた耕治人が、80歳になったとき、妻の痴呆症発症という事態を迎えるのだ。
最初の症状は、買い物に出かけた妻が購入した品物をやたらに店に置き忘れてくることだったが、やがて門扉の鍵や財布をなくすようになった。そして台所で炊事をすれば、ガス台に掛けた鍋を次々に黒こげにして使えないようにしてしまう。耕治人は妻を台所に立たせず、自分でスーパーに出かけて調理済みのオカズを買ってくるようになった。
妻は「主婦の友」社に勤めていた頃、料理記事を担当していて、自分でも料理をするのが好きだった。それで時々、自分から料理をしたいと言い出して、またもや鍋を焦がしてしまう。堪りかねて耕治人が、「何度焦がせばいいんだ」と怒鳴ると、妻はもの柔らかな口調で、「ごめんなさい」と詫びる。しかし、その目は、今まで見たことがないほど据わっていて、顔色も普段と変わっている。耕治人は、事態が深刻になっていることを感じないではいられなかった。彼は、次のように書いている(「天井から降る哀しい音」)。
<結婚以来家内の温かい庇護のもとに、のうのうと暮らしてきた私は裸で放り出されたのを感じた。>
耕治人は、今度は自分が妻を介護するする番だと思い、17年前の自分を改めて思い出した。
<実は私は十七年ばかり前のことだが、頭がおかしくなり、昼間から雨戸を閉め、蝋燭をつけ、何日も過ごしたことがある。真夜中寝巻きのまま表に飛び出したことは一度や二度でない。
家内はそんな私に少しも動ぜず、介護してくれた。
神経科の病院へ入院したとき、一日置きにきてくれた。>
耕治人は原稿を書くかたわら、積極的に妻の世話をするようになった。それを見かねたのか、ある日甥がやってきて妻をドライブに連れ出してくれた。妻のいない間に原稿を書いておかねばと机の前に座ったけれども、彼の気持ちは落ち着かなかった。書くべきことがすっかり頭に入っているのに、ペンを動かす気になれないのだ。
<首を振ったり、手をもんでみたりしたが、(文字が)浮かんでこない。それだけではない、私という人間の中味も消えてしまったように頼りないのだ。むくろという言葉がふいに浮かんだ。
六時間か七時間したら、(妻は)帰ってくるはずだ。どうしてこんな気持ちになるのか。いままでこんな気持ちを経験したことがない。>
妻のことで頭も心もいっぱいにしていたから、妻の不在が耕治人の内面を空っぽにしてしまったのだ。彼は執筆活動を続けるためには、妻を老人ホームに入れるよりほかないと思っていたけれども、妻がそこに移ったら自分の中味もそっちに移ってしまうかもしれないと思う。
「天井から降る哀しい音」のなかの次の場面には、老年の夫婦の悲しみのようなものがよくあらわれている。耕治人がオカズを買いに出かけて帰ってきたら、妻が座卓の前で深くうなだれていたのだ。
・・・・・・・
<「どうしたんだ」
顔をのぞくと、眼に涙をためている。
「さっきまであんなに機嫌がよかったのに。朝から人が入って、疲れが出てきたんだ。横になって少し休みなさい」
それには答えず、「あたしなにも出来ないのよ」といって泣き出した。
「急にそんなことを言い出して。どうしたんだ」
「手もこんなになってしまって」
骨張り、しわのよった手を差し出したから、私は両手でもんだり、さすったりしながら「ぼくのせいだよ。ぼくのせいでこんな手になったんだ」
「そんなこと言ってるのじゃないわ。なんていうのか、ああ言葉が出てこない」
自分の額を手でパンパン叩いた。
「死にたい」
私は胸を衝かれ、家内の肩をもんだり、背中をさすったりしながら、私が留置場に入れられているあいだ一日置きに、差入れに通ってくれたこと、頭がおかしくなり入院したとき、一日置きに病院に来てくれたことなどを喋り続けた。>
・・・・・・
妻の痴呆はさらに進行し、深夜に起き出て台所で飯を炊き、耕治人を揺り起こして、「朝ご飯が出来たのよ。起きて頂戴」と言うようになる。こうしたことが続いて、やがて、天井から哀しい音が降ってくるようになるのである。
(つづく)