(今川焼き屋を開店した深沢七郎)
深沢七郎著作集10巻のうち、7,8,9,10巻の4冊がエッセー集になっている。
これをとびとびに目を通してみると、書かれている内容が次第に変化して行っていることが分かるのだ。エッセー集最初の7巻目を開くてみよう。次のような題目が並んでいるのである。
言わなければよかったのに日記
とてもじゃないけど日記
変な人だと言われちゃった日記
言えば恥ずかしいけど日記
これらのエッセーの多くは、中央公論の懸賞小説に応募して入選したあとで、中央公論からの注文に応じて書かれたものである。中学卒業後、いくつもの商店で住み込みの奉公をした経験のある深沢七郎は、恩義ある中央公論へのお礼奉公の気持ちでこれらの文章を寄せたに違いない。
そのためエッセーは、精一杯サービスした内容になっている。彼は自分が文学についても、世間智についても、いかに無知な馬鹿者であるかを面白おかしく語ってみせるのである。例えば、文壇の長老正宗白鳥を訪問するとき、正宗邸にはきっと池があると思っていたと書くのだ。その理由は、ペンネームが「白鳥」となっているからには、水鳥が好きで屋敷の中に池を掘り白鳥を飼っているはずだからというのである。
そして彼は、正宗白鳥と話をしているうちに、相手が清酒会社の跡とり息子ではないかという気がしてきて唐突に尋ねる。
「先生は酒の・・・・、菊正宗の・・・・・」
すると、正宗白鳥は、「ボクはそんな家とは何の関係もないよ」と答える。
深沢七郎は、作家は最後には自殺するものだと思ったり、恋愛ものを書くたびに浮気をするものだと思っていたと告白する。
正宗はこういうふうな馬鹿丸出しの深沢七郎を愛するようになる。そして、彼を自宅に招いて泊めてやったり、外出する際お供に連れて行ったりするようになった。銀座を一緒に歩いているとき、正宗は深沢に、「あそこへ行ったのがツボイサカエだ」と教えてやる。「言わなければよかったのに日記」には、それに続いて以下のような問答があったと記されている。
<「ツボイサカエというのは男ですか? 女ですか?」
ときくと、
「女だ」
と云うのである。(うちにはサカエという甥がいるけど)と思っていると、
「君はナンニモ知らんな、知らんからいいかもしれんな」
と、うまいことを云って下さったので、ついでに、
「いくつぐらいの人ですか?」
ときいた。
「いくつぐらいになるかなあ」
と考えてるらしいので、
「”二十四の瞳″を書いた人でしょう、まだ子供でしょう」
と云うと、
「いや、四、五十位になるだろう」
と云うのである。>
エッセーを書き始めた頃の深沢は、こんな文章をいたるところで書いたから、気の早い読者は彼を認知症の患者か、精神薄弱者だと錯覚し、深沢七郎を文学の世界における山下清のような存在だと思いこんだりした。読者ばかりではない、編集者や批評家の中にもそうした見方をするものがいて、雑誌に自分のことを精薄者とかかれたことがあると深沢自身書いている。
だが、一方では彼を本性を隠した悪党だと見る者もあった。
彼は文学や文壇について小学生にも劣る知識しか持っていないと宣伝しながら、別の所では、中学二年生の頃に翻訳物の「椿姫」や「マノン・レスコオ」を読んで感動したと書いている。その頃彼は、トルストイの「復活」も読んでいるのである。中学二年でフランス文学ロシア文学を読んでいるとしたら、文学的に早熟の部類に入るのだ。
それに彼は20歳から32歳頃まで、胸部疾患のため実家でごろごろしていた。実家の印刷屋を継いだ弟は文学青年だったというから、家には文学書がたくさんあったと思われる。暇をもてあましていた彼が、それらを読まなかったはずはない。
上記の壺井栄の話にしても、あらかじめ壺井栄について十分な知識を持っていなければこんなユーモラスな雑文に仕立てることは出来ない。
あれこれ考え合わせてみると、深沢七郎は世に受け入れてもらうために殊更阿呆のふりをしてみせたのである。彼は42歳で懸賞小説に入選して脚光を浴びるまで、定職を持たず、半ば弟に寄食して生きていた。だから、シタデに出て、読者の優越感を満足させる戦略に出たのである。
実際彼は、あちこちに自分を売り込むのに必死になっていた。その頃の彼は、知名人の私宅をやたらに訪問している。懸賞小説の選者だった伊藤整・武田泰淳・三島由紀夫をはじめとして、前述の正宗白鳥や石坂洋次郎・村松梢風・井伏鱒二・深田久弥・吉屋信子などを歴訪し、文壇以外では辰巳柳太郎・高峰秀子の所まで押しかけているのだ。
そんな彼が昭和35年、46歳の時、「風流夢譚」を書いたのである。この作品を彼が一編のユーモア小説のつもりで書いたことは、左翼革命を「左欲革命」と表記したことでも分かる。作品の中には、皇太子・皇太子妃の首がマサカリで切り落とされ、スッテンコロコロと転がる場面がある。
これを読んで激高した17歳の右翼の少年は、中央公論社の嶋中鵬二社長の家に押しかけ夫人に重傷を負わせ家政婦を刺殺するという事件を起こした。Wikipediaは、事件後の深沢についてこう記している。
<この事件の影響で深沢は1965年まで放浪生活を余儀なくされた。深沢自身は嶋中事件で犠牲者が出たことを悔やみ、様々な方面からのの復刊依頼に対しても「未来永劫封印するつもりだ」として応じなかった。事件から22年後の1987年に深沢は死去したが、1997年刊行の『深沢七郎集』(全10巻)にも(「風流夢譚」は)収録されていない。>
事件後に彼は、「流浪の手記」というエッセーを書いている。この文章からは、それまでのエッセーにあった浮かれた調子は影を潜めている。
<あの忌わしい事件──私の小説のために起こつた殺人事件に私は自分の目を疑った。何もかも私の書いた小説の被害ばかりなのである。諧謔小説を書いたつもりなのだが殺人まで起こったのである。そうして私は隠れて暮すようになった。警察では再び事件の起こらないようにと私の身辺の警戒までしてくれた。・・・・・そうして私は都内の某氏の家に身を寄せて、二人の刑事さんと五匹の犬と隠されるように日を送った。
・・・・・私は事件の原因を作った責任者なのだ。私以外の人はみんな被害者で、殺人を起こした少年も私の小説の被害者だと私は思うのである。
それから私は旅に出た。京都、大阪、尾道、広島。東北は裏日本を通って北海道へ来た。目的も、期間もない旅なので汽車に乗ったり、バスに来ったりした。靴はすぐ足が痛くなるので下駄で歩いた。>
「流浪の手記」のなかには、「私は死場所を求めているのかもしれない」という一節が織り込まれていたりして、文章の調子が以前とは全く違っている。こうして彼は、次第にエッセーの中に自らの本音を記すようになるのだ。
(つづく)
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