深沢七郎が彼らしい主張を最も鮮明にしている文章は、ニート志望の若者に対する回答だとおもわれる。そこで、まず、この相談者の質問を抜き出してみよう。
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<僕は今18歳です。今年高校を卒業してから現在まで、何もせずフラフラしています。大学へ入る頭も気もサラサラありませんでした。かといって就職する気もまったくなしです。今の僕は何もする気になりません(体は至極健康です)。
僕は以前から人生や日常生活その他全てに本物でありたいと思っています。
本物(抽象的な言い方ですが今の僕の全てです。)になるには大学へ入り教養を身につ
け、社会に出て、人間を知らねばだめでしょうか。
それとも本物なんて所詮この世の中にはないものなのでしょうか。
何もかもが空しく思え、見えるんです。
・・・・こんなことも考えます。僕は現在社会の中に生きている。これは生まれてきた以上どうしようもないことです。そのくせ自分は、その社会を構成する一員にはなりたくないんです。もし僕が生きていることが、すでに社会の一員になっているとしたら、僕はそれに反抗したいんです。
・・・・(「僕の時代」が来るのを待ち望んでいるうちに)いつしか年をとり、小市民的平均的人間になってしまいそうな気がします。本当に僕はどうしたらいいのでしょう>
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「人間滅亡的人生案内」が雑誌に掲載された昭和42年といえば、まだ日本は高度成長期にあって、ニート志願の高校生などは絶えてなかったように思われるが、どんな時代にも、こうした若者はちゃんといるのである。いかなる時代いかなる社会にも、余計者意識をもった若者は一定数存在するのだ。
相談者の若者が現代のニートと違う点は、社会への強い違和感を抱きながら居直ることが出来ないでいるところだろう。この高校卒業生は、進学もせず、就職もしないで、家でフラフラしている自分に後ろめたさを感じ、無為の生活を打ち切って、「本物」の生き方をすべきではないかと迷っている。
深沢七郎は弱気になっている質問者に、真っ向上段から痛棒を加えるのである。
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<「本物になるには大学へ入り教養を身につけ、社会に出て、人間を知らねばだめでしょうか」とはなんというアキレタ考えでしょう。
人生や日常生活その他全てに本物でありたいと思っているとはなんとアサマシイ考えでしょう。
あなたのいう本物とはなんでしょう。人間には本物なんかありません。
みんなニセモノです。どんな人もズウズウしいくせに、ハズカシイような顔をしているのです。どんな人もゼニが欲しくてたまらないのに欲しくないような顔をしているのです。人間は欲だけある動物です。ホカの動物はそのときだけ間に合っていればいいと思っているのに人間だけはそのときすごせるだけではなく死んだ後も子供や孫に残してやろうなんて考えるので人間は動物の中でも最もアサマシイ、不良な策略なども考える卑劣な、恐ろしい動物です。だから、本物などある筈はありません。
「大学へ入る頭も気もサラサラありませんでした。就職する気もまったくなしです」というのは最も当り前の考えです。誰だってそんなことはしたくないのに他人がするからそうしなければいけないというふうに思い込んで、錯覚でそういう道をすすんでしまうのです。だから何もせずフラフラとしていられるだけはそうしていたほうがいいでしょう。
また、「自分が安っぼい人間に思えて毎日がいやになる」なんてとんでもない考えです。安っぼい人間ならこんな有難いことはありません。安っぼいからあなたは負担の軽いその日その日を送っていられるのです。安っぼい人間になりたくてたまらないのに人間は錯覚で偉くなりたがるのです。
心配なく現在のままでのんびりといて下さい。いちばんおすすめすることは行商などやって放浪すること、お勤めなどしないこと、食べるぶんだけ働いていればのんびりといられます。>
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すべての人間は自分のことしか考えていないエゴイストなのに、うわべを繕って善良な顔をしている。ニセモノしかいない世の中を生きるには、自分を本物のように偽装することをやめ、本来の安っぽい人間に立ち戻って、自分の好きなことだけをして、気楽に生きることである。
こうした深沢七郎の「下からの人間平等論」は、老子の考え方に似ている。
老子は、才を競い、富や地位を誇りとする世人の生き方を「余食贅行」と呼んでいた。人はすでに十分に足りているのに、食べ過ぎたり、やりすぎたりして自滅する生き方をしているというのである。富とか権勢とかは、通行人の足を束の間止めさせるだけの価値しかないのに、野心的な人間はこれらを必死になって追い求める。得たものに比較して、投入するエネルギーが多すぎるから、人は過労死する。
深沢七郎も、人は空疎なものを追い求めて衰弱死すると考えていた。人間には肉体があるだけなのに、精神的なもの知的なものを求めるから精神病になってしまう。老子は足ることを知って生きれば余力を生じる、そしたらそれを世のために注げと説き、エネルギーを最終的に振り向ける場所として「慈」の世界があると言う。が、深沢七郎はエネルギーが余ったらぼーっとしているがいいというのだ。好きなことだけをして、時間が余ったら無為でいろというのである。皆が心がけを改めて無為でいたら、人間滅亡の時期が早まるのだ。
この一見暴論にも見える深沢七郎の言説が当時の若い世代に受け入れられ、人間滅亡教の教祖にかつぎ上げられたのは何故だろうか。わが国が、鬱病国家であり過労死国家だからだ。
教育現場では、こんなふうに言われている。生徒が劣等感にとらわれ鬱症状を示すようになるのは本人の達成目標が高すぎるためだから、能力に相応しい目標を設定するように指導せよ、と。これは生徒だけではない。教師が鬱になるのも同じ理由からなのだ。
「人間滅亡的人生案内」には、教師からの相談も掲載されている。
<教師の仕事がいやでいやで登校するのが苦痛な日があります。生徒にすまない、教える力がない、自分に向いていない、こんなひとりごとを長い廊下をたどりながら繰り返しています。>
私も教員になった当座は、同じように出勤するのを苦痛に感じていた。格別、大きな抱負を持って就職したわけではないのに、私は無意識のうちに自分の能力レベルを実際よりも高く想定していたのだった。が、実際に教壇に立ってみるとすべて思うに任せず、落ち込んでしまったのである。
劣等感に襲われ鬱症状になるのは、達成目標が高すぎるためだとしたら、達成目標など持たぬことである。人間はすべてニセモノと考え、自分もろくでなしだととらえ、一切の幻想を捨てて無手勝流で現場に臨めばいいのだ。魅力的な先輩や仲間を見て、劣等感を感じたら、こう考えることだと、深沢七郎はいう。
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<世の中には演技的行動をしない、地のままの態度をする者があって、それは、とても美しく感じます。だがね、そういう者も演技なのですよ。きわどいところで、美しいところだけ見せているのです。
例えば、「俺はバカなんだ、スケベエなんだ、彼女にふられてしまったよ」などと、平気で言える人は、そもそも、演技のツボを心得ているのです。そういう人だって本当の姿は出せないのです。何故なら、人間という奴は誰でもキジを出せば同じ物だからです。それで、適当に演出をしているのです。
個性だとか、なんとかいうのがそれです。個性とは演出の相違なりです。人間は欲が深く、汚く、食いしん坊で、スケベエです。どんな人間だってそうだから、「あいつはいい奴だ」などと言うのはダマされているのです。>
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人間のキジは皆同じ。個性差と見えるのも単に演出法の違いに過ぎないとは、なかなかの卓見ではあるまいか。
倫理的な人間は、自らの自己犠牲や献身の度が低いと自責の念に駆られている。そして裏切られると、思わず怒りを感じたりする。だが、よく考えてみれば、それら善意の行為も自分が好きでやったことなのだ。もともと自分の素地は、救いがたい利己性にあったのであり、自らの行動を価値観の篩いにかけて弁別しないで、善行も悪行も同じ趣味性による行動だったと一元化して考えるようになれば気持ちがぐっと楽になるはずだ。
深沢七郎の人間滅亡教には、いろいろ問題があって、そのすべてを受け入れることは出来ないが、「下からの人間平等論」には参考になる点が多い。深沢七郎は狷介な性癖の持ち主であるにもかかわらず、必要とあらば知名人の私宅に平気で押しかけたり、北海道を放浪中、道を歩いていてノドが渇けば、見知らぬ民家の勝手口に回って水を無心するようなことをしている。こうした臆面のなさは、深沢式の人間平等論がもたらしたものである。彼の「理論」には、実践面で効用があるのである。