甘口辛口

深沢七郎集の月報から

2007/7/30(月) 午後 0:15
深沢七郎は、「庶民烈伝」の序章のなかで、インテリ青年の言葉だとして自説を語っている。

「庶民以外の階級の者はみんな異常神経の持ち主だ」と。

この青年によると、「ほかの者より以上に金を儲けようとか、ほかの者よりぬきでた者になろうとするのは、異常神経だよ」ということになる。深沢七郎はこの説を敷衍して、次のように語るのだ。
 
 <つまり、学校などでも、ほかの生徒より勉強して上位の成績をとろうとするものは、みんな異常神経の持主ということになるそうである。実業家が経営を拡大するという考えも異常神経だし、選挙運動などをやって政治家になるのも異常神経だし、太閤秀吉とか中国の漠の高祖などはみんな異常神経だそうである。テレビに出演して大勢の前で唄を歌いたいという考えを起すのも、作家も、映画俳優もスポーツ選手もみんな異常神経の持主だそうである>
 
このインテリ青年とその父親を相手に、庶民談義を展開していた深沢は、「ではエリート志向の強い異常神経の持ち主は一体どのくらいいるのか」と質問する。すると、青年の父親の方が、十人中一人くらいではないかと答える。

「学校なんかで、一クラス50人のうち、優秀な生徒は一番から五番くらいまでだから、異常神経の生徒は五人で、あとはみんな庶民だ」

こういう文章を冒頭に据えた「庶民烈伝」を、高く評価する批評家や学者は少なくない。中沢新一や荒川洋治は全集付録の月報で、わが意を得たりとばかりオマージュを捧げている。

もっと猛烈な賛辞を贈っているのが佐野洋子である。

< 深沢七郎は誰も居ないところに一人で立っている。
  多分文壇という集団が固まっているところから遠
 くはるかにたった一人で平気で立っている。私は、
 彼の小説を読んでいる時、さっととんでいって深沢
 七郎のうしろにかくれ、遠くの小説群に向って、
 「ざまあ見ろ」という気持だけになって、アッカン
 ベーをしたくなる。いや事実している。文壇なんて
 私には関係ないのだが、私がアカンベーをしている
 のは、多分世間というもの、人間は、食って糞して
 寝て唯生きて死ぬということがいかに至難のことか
 ということにすっぽり袋をかけて、嘘っぼい飾りを
 つけて糞もしない様な面をしている奴等につばをひ
 っかけたくなるのである。>
 
これに続けて、佐野洋子は文壇の作家達が深沢七郎を恐れていると断言するのである。作家らは自分たちが到底表現できないような真実を、深沢がシャアシャアとした顔で書いているからだ。

<・・・・だから誰もあ
 んまり深沢七郎のことをあれこれ云う偉い人は居な
 いのだと私は思っている。
 人間は糞たれて食って寝てボコポコ子供を産んで
死んでゆくだけだと思いたくないのだきっと、と私
 は思う>
 
この猛烈な文章も全集の月報に載っているのだが、同じ号の月報に四方田犬彦はマスコミに質問されたときの深沢七郎の破天荒な返答を紹介している。

<・・・・戦争を
 なくすにはどうすればいいかと聞かれた深沢は、人
 口が減れば平和になるといった。皇太子が平民と結
 婚したことをどう思うかと尋ねられて、皇室が千何
 百年にわたって続けてきた近親結婚のおかげで、今
 度はどんな変わった崎形児が生まれるだろうと楽し
 みにしてきたのに、今までの期待が水の泡になって
 しまったという意味の発言をしている。感傷という
 感傷を拒絶した、自然主義的な世界観がここには存
 在している。>
 
しかし深沢七郎は本当に庶民を肯定しているのだろうか。
彼は庶民と自分を同一化させ、庶民代表としてインテリをやっつけるというポーズを取っているけれども、これは本音だろうか。

庶民の典型として彼が取り上げた「ギッチョン籠」一家(「笛吹川」に登場)の描き方を見てみよう。

「ギッチョン籠」の数代にわたる歴史は、甲州の武田氏が勃興から滅亡するまでの歴史と深く組み合わされている。この家の子ども達は、郎党として武田軍に加わり、戦死したり、功名をあげたりしている。家族の中には問答無用で打ち首になった男や、嫁ぎ先の一族全員を皆殺しにされた女がいて、ある意味で、武田一族は一家にとって疫病神のような存在だったのである。

婚家の家族を皆殺しにされ、辛くも生き残った女などは、「お屋形様」を深く恨み、武田信玄とその一族を呪うようになっていた。しかし敗色濃厚になった武田軍に加わった息子は、家に戻ってきて、お屋形様と共に最後まで戦うと言い張るのである。もう戦場へは行くなと説得していた父親は、息子が「先祖代々、お屋形様のお世話になってきたのだから、殿様を見捨てることは出来ない」というのを聞いて、開いた口がふさがらなくなる。

<定平もおけいも、お屋形様には先祖代々恨みはあっても恩はないのである。先祖のおじいは殺されたし、女親のミツ一家は皆殺しのようにされてしまい、ノオテンキの半蔵もお屋形様に殺されたようなものである。・・・・(それなのに、息子が)先祖代々お屋形様のお世話になったと言いだしたのであるから惣蔵は気でも違ったのではないかと思った(「笛吹川」)>

引き留める父親の手を振り切って戦場に駆けつけた息子は、奮戦の後に死んでしまう。こうした「ギッチョン籠」の男達の行動を描きながら、深沢七郎は戦争に明け暮れた明治以後の日本の歩みを考えていたのだ。「お屋形様」を天皇に、一億玉砕を誓い合った戦時下の日本国民を「お屋形様」の恩に酬いるべきだと言い張る息子に置き換えれば、深沢七郎が現代社会における庶民というものをどう考えていたか明らかになるのではなかろうか。

深沢七郎は庶民と同じ心情で生きていたから、庶民の心理やその生態をまざまざと描き得たのではない。彼はむしろ庶民とは無縁の異邦人の目で日本人を俯瞰的に眺めていたのである。庶民を情緒過剰な日本人的作家の目ではなく、非日本人的なドライでニヒルな目で眺めていたから、あれらのユニークな作品群を生み出したのだ。私は今度、深沢七郎の小説をいくつか読み、この作家には夏目漱石がガリバー旅行記の著者について指摘したような非情な面があるのではないかと感じた。

深沢七郎の作品には、どれにも滑稽な味わいがある。これも彼が温かなユーモアを持った人間だったからではなく、その逆の人間だったからではなかろうか。

そう思っているうちに、別の月報に次のような文章が載っているのを発見した。この記事を書いた佐藤健という人は、ラブミー農場に通って農作業を手伝ったり、「風流夢譚」事件で右翼から襲撃される危険性のある深沢七郎のボディーガードを買って出た青年で、白菜の漬け物が好きなので深沢から、「ハクサイさん」と呼ばれていた人物だという。彼がニューヨーク大学に留学することになったとき、深沢七郎がアパートに訪ねてきて、彼に餞別を手渡したのだ。以下は、月報の文章。

                 *
                 
<「これは餞別」と言い封筒を出した。その時はあり
がたく受けとったが、深沢さんが帰ったあと封筒を
あけると「五十五万円」入っていた。当時の五十五
万円は現在の三、四百万円にあたるだろうか。僕は
菖蒲町へ返しに行った。

「あのねえハクサイさん。あなたにはすっかりお世
話になった。あなたがニューヨークへ行っているう
ちにオレが死んだら、一生恩返しができなくなる。
そのまま死ぬのはイヤだから、せめてお金でと思い、
うちの貯金を全部おろしてきたんだよ。せめてのお
礼と思ってもらっておいてちょうだい」

今度は僕が泣く番であった。>

深沢七郎をガリバー旅行記の著者のような男ではないかと思っていた私の推測は、又しても外れたようである。深沢七郎というのは、全く端倪すべからざる人物である。