この一年余の間に、日本人作家の個人全集をいくつも購入した。
坂口安吾
伊藤整
平野謙
耕治人
安岡章太郎
大岡昇平
そして、最近、これらに更に松本清張全集と広津和郎全集が加わることになったのである。松本清張全集は39冊あり、広津和郎全集は13冊だから、書架はいよいよ窮屈になり、本の収納場所を新たに考えなければならなくなっている。
そろそろ棺桶に足を突っ込む年齢になっても、まだ次々に全集を買い込む私の気が知れないと人は思うに違いない。だが、それは老人の気持ちを知らない者の考えることなのである。老い先短い身だからこそ、読み残した作品への執着が強くなるのだ。読書癖のある人間は、生きているうちに読みたいと思っていた本に少しでも多く目を通しておきたいと思うものである。
松本清張全集を購入したのは、インターネット古書店の目録を見ていて、意外に安かったからだった。全巻39冊で1万9000円余という値段が付いていたのである。これだと一冊500円程度になる。私は清張の推理小説にあまり興味を感じないけれども、前々から「昭和史発掘」「古代史疑」「小説東京帝国大学」などを読みたいと思っていたから、早速注文することにしたのだった。「ある小倉日記伝」や「菊枕」など、彼のデビュー当時の短編にも愛着があり、もう一度目を通したいと思ってもいたのである。
広津和郎の作品をまとめて読みたいと思ったのは、その著作「年月のあしあと」を読んだからだった。広津の父・広津柳浪は、明治期に深刻小説で一世を風靡した流行作家だったが、晩年に文壇から忘れられたようになり、ペンを取ることもまれになった。そういう父に注ぐ広津和郎の愛情には深いものがあり、「年月の足跡」を読んだときに、私はこんな父子の関係もあり得るのかと新鮮な驚きを感じたのだった。
しかし、広津に対する興味は、平野謙の作家論を読まなければそのままになっていたかもしれなかった。平野の作家論によると、広津は「神経病時代」「死児を抱いて」などを書いた自然主義の作家であると同時に、「怒れるトルストイ」で注目された気鋭の評論家であり、芥川龍之介・菊池寛などの赤門派の作家に対峙した早稲田派作家の中でも屈指の作家らしかった。私はこういう広津の経歴を知らされて、眠っていた彼への関心を改めて喚起されたのであった。
段ボール箱に詰め込まれた全集が書店から届くと、まず、松本清張の「昭和史発掘」と「半生の記」を取り出して読み、つづいて広津和郎の初期短編集を平行して読んだ。「半生の記」を読んでいると、自然に広津の「年月のあしあと」が思い出されてくるのである。この自伝で、松本清張は父親のことに多く筆を費やし、この父を親に持ったことで彼の人生がほぼ決定されたと書いている。広津もそうだった。広津和郎の作家人生は、広津柳浪を父に持ったことによって決定されたともいえるのである。
広津の父親と松本清張の父親は、まさに正反対の気質を持った人間であり、広津と清張という二人の作家の違いもここから来ているように思われるのだ。
では、松本清張の父親は、どんな人間だったか。
松本清張は「半生の記」という自伝のほかに、自らの過去を語った私小説を一つだけ書いている。「父系の指」というその作品には、冒頭に父のことが書いてある。
<私の父は伯耆の山村に生れた。中国山脈の脊梁に近い山
奥である。生れた家はかなり裕福な地主でしかも長男であ
った。それが七カ月ぐらいで貧乏な百姓夫婦のところに里
子に出され、そのまま実家に帰ることができなかった。里
子とはいったものの、半分貰い子の約束ではなかったかと
思う。そこに何か事情がありげであるが、父を産んだ実母
が一時婚家を去ったという父の洩らしたある時の話で、不
確かな想像をめぐらせるだけである。>
父の実家も、その親戚も、皆裕福な地主だった。その長男に生まれながら、彼が貧しい農家に里子に出され、結局そこに預けっぱなしにされ、実家の跡を弟が継いだところを見ると、清張の出生には人にいえない暗い秘密があったと思われる。父の実母は夫以外の男と関係して妊娠したのではなかろうか。そのために彼女は離縁になり、その後復縁したものの、「不義の子」は里子に出さざるを得なかったのではないか。
父の実母は、清張の父を里子にだした後に、年に一度、子どもに会いにやって来たという。大きな風呂敷に里親への進物と、わが子への土産を包み、それを背中に負って十里の山坂を超えて訪ねてきたのだ。そして、その夜は一晩じゅう、わが子を抱いて寝た。だが、6年後、父の弟になる子どもが生まれてからは、実母はもう訪ねては来なくなった。
清張の父は、19になると里親の家を出奔して広島に走り、そこで陸軍病院の看護人になっている。次いで県の警察部長宅の書生になり、警察部長の転勤後は、人力車の車夫になった。そして、その頃に紡績女工をしていた母と知り合い、夫婦になったのである。が、書生時代に少しばかり六法全書をかじっってインテリ気取りでいた父には、文字の全く読めない文盲の妻に満足できなかった。それで、父は最後まで母を自分の籍に入れなかった。そのため松本清張は、戸籍上、庶子ということになっている。
母は農家の出で、おそろしく気の強い女だった。彼女は小学校に入学早々教師に叱られ、それ以来意地になって登校しなかったから文盲になったのだった。屋台店を張っていた頃、彼女は場所割りの差配をしていたヤクザに食ってかかり、相手をたじたじとさせたことがあるほどだったのだ。こんな風だったから、夫婦の間に争いが絶えず、父は母が死病になって息を引き取るときにも、猫の額ほど狭い家にいたのに、母のそばに一度も寄りつかなかった。松本清張は、両親について、「こんな不幸な夫婦はなかった」と書いている。
夫婦の間には3人の子供が生まれたが、上の二人は早くに亡くなり、清張だけが残った。清張が3才になったとき、夫婦は広島を離れて下関に移り、そこで餅屋を始めた。この商売が軌道に乗ると、父は相場に手を出すようになった。朝早く起きて餅つきをし、それが済むと後は女房にまかせて、いかにも相場師らしいぞろりとした絹物の着物に着替え、ぷいと家を出て行くのだ。
相場であてて小金の出来た父は、外に女を作るようになった。遊郭の商売女に入れあげはじめたのだ。
逆上した母は、毎夜、小学校二年生の清張を連れて花街に出かけ、店の一軒一軒を叩いて夫が来ていないかと聞いて回るようになった。だが、父の幸運は長くは続かなかった。相場に失敗して借金だらけになり、仲買店からも店への出入りを止められ、父は動きが取れなくなった。借金取りばかりではない、母も顔を青すごませて父を責め立てる。いたたまれなくなった彼は、妻子を捨てて家をとび出してしまう。
夫に家出をされて途方に暮れた母は、清張をつれて近所のおかみさん仲間の家に転がり込んで居候になった。それからの生活は惨憺たるものだった。単に近所の知り合いだったというだけで、赤の他人の家を居候になって転々と渡り歩くのである。そこへ家出をしていた父が戻ってきて、一緒に居候暮らしをはじめる。一家はとうとう下関では暮らせなくなり、九州のY市に引っ越し、そこで父は塩鮭や鱒を橋の上で売るようになった。それまでゾロリとした絹の着物を着て肩で風を切って歩いていた男が、破れた着物の裾をからげ、草鞋を履いて寒風吹きすさぶ橋の上で魚を売るのである。
こういう父のことを松本清張は、次のように書いている。
<父親は不器用で、無計算で、どんな商売をしても成功す
るはずのない人間だった。少し調子がいいとすぐ身なりを
整え、柾目の下駄をはいて、往来を風を切って歩いた。商
売はみんな母親に押しつけて、自分は知り合いのところに
行っては話しこんでいた。>
一家は次に小倉市に移り、夫婦別々に露天商を始める。彼らが借りた家は二間続きの小さな家で、片方の部屋には家主の老婆が9才くらいの孫娘と住んでいた。息子は刑務所に入っているという話だった。屋根はトタンで夏になると室内は焼き殺されるほど熱くなり、梅雨時には畳の上をナメクジが何匹もはい回った。
隣家には肺病やみの中年女がいて、時々亭主がその女房を背負って共同便所に通う。清張が借りている家には便所がなかったから、そのあとに共同便所に行くと、その辺が血だらけになっていた。
こういう暮らしの中でも、松本清張は両親から愛されていた。なかでも一人息子に対する父の愛情は半端ではなかったのである。
(つづく)