ホームドラマの日米比較
表題は日本とアメリカのホームドラマを比較するということになっているけれども、実は、私は以前から日本のホームドラマをほとんど見ていない。民放のドラマは無論のこと、NHKの連続ドラマも完全に近いまでに見ない。有名な「おしん」ですら、先年そのダイジェスト版をNHKが放送したときにちょっと眺めただけである。
理由は和製ホームドラマがウエットに過ぎるからなのだ。これと同じ理由から、私は歌謡曲番組を敬遠している。私は一日の三分の一をテレビを見て過ごしているテレビ人間であるけれども、ドラマと歌謡曲の二つを忌避しているため、民放もNHKも見るところがなくなってしまっている。そこで、やむを得ず、外国映画とドキュメンタリー番組、そして正午のワイドショウや夜の米国製ホームドラマなどを視聴することになる。
打ち明ければ、私が「泣いてください、泣かせます」を基本とするドラマや歌謡曲を嫌悪する理由は、それらによって動揺してしまう弱い自分を自覚しているからなのだ。森鴎外は、「おれは芸者を見るのもいやだ」といっていた。これも鴎外が芸者の前で平静でありえなかったからで、彼はこう表明することで事前に芸者を頭から閉め出していたのである。
和製ドラマに比較すると、アメリカのホームドラマは総体的にドライなのだ。
たとえば、WOWOWで放映した「ザ・ソプラノズ」というドラマは、マフィアのボスを主人公にして、その家族や親戚縁者を登場させている。日本のホームドラマの定番は、母と息子、あるいは父と娘が、はじめは対立しているが、最後には理解し合って互いの愛情を確認しあうという筋立てになっている。ところが、「ザ・ソプラノズ」では、家族間の愛情が最後まで貫徹されることはない。権力に執着する母親は、やがてマフィアのボスである息子の殺害を謀るのである。
NHKで放映している「デスパレートな妻たち」も、アメリカらしいホームドラマだ。「デスパレート」とは、必死に生きるという意味である。確かに、この番組に登場する4人の妻たちは、皆必死になって生きている。だが、それは夫や子供を守るために必死になるのではなく、自らのエゴを守るために必死になっているのだ。妻たちの一人は、高校生の息子を愛している。だが、彼女は手っ取り早くゲイの息子を立ち直らせようとして、脅迫という手段を用いる。すると、息子の方でも母親の弱みをつかんで警察に通報するぞと脅すのである。母と子が、互いに相手を支配しようとして、相互の弱みをネタに脅迫しあうのだ。こんな母子関係は、日本のホームドラマでは先ず見られない。
外国物のドラマや映画にどっぷりつかっていると、視聴者の意識に変化が起きる。
先日、NHKアーカイブスで、山田太一の「今朝の秋」というドラマを見ていたら(山田太一のドラマだけはよく見ている)、何となく身につまされてホロリとした。山田太一は極力抑制しているけれども、やはり要所要所で泣かせの技法を使っている。そのため、太一ドラマを見ていると、作品の持つウエット効果に感染してどうしても同調過剰になってしまうのだ。しかし、外国物のドラマを見ていて、同調過剰になることは少ない。逆に、冷めた目で登場人物を眺めることが多くなる。
洋物愛好者としての私は、しばしば宇宙の果てから現世を観望するような気分になるのだ。人はさまざまな役を負って、この世に生きている。私たちは、男に生まれてくるか女に生まれてくるか、自分で選ぶことが出来ない。金持ちの家に生まれるか、貧乏な家に生まれるか、そしてすぐれた才能を持って生まれるか、無能な人間として生まれてくるか、それも選ぶことは出来ない。おぎゃアと生まれて来たら、すべてはもう決まっていたのだ。私たちはやがて、各人の役柄が最初から決まっており、自分は与えられた条件を生きていくしかないという冷厳な事実にぶつかるのである。
外国映画を2,3本続けて見るだけで、全ての人間が異なる星の下に生まれてきて、与えられた役を演じて死んでいくという事実を否応なく知らされる。すると、自分自身を見る目にも転換が起きるのだ。かけがえのないものとして大事に思っているこの自分も、他の全ての人間と同様、所定の役柄を演じている一個の単位に過ぎない。「私」とは、非人称的な単位でしかないのである。
そして、人間とは何というヘンテコな生き物であるか、という嘆きに襲われる。人はオスとメスに分かれて、その双方がどうやって異性を獲得するかで頭をいっぱいにして生きている。社会を形成してからは、他を凌ごうとして神経をすり減らし、微差を争うことに生き甲斐を感じる。自分が何のために生まれてきたかを知っている者は一人もいない。何も知らないままに、人は愛し合ったり憎みあったりして、闇雲に生きているのである。
単位的存在でしかない自分を、純客観的な目で眺めたときに、「自分離れ」という現象が起きる。精神から自我意識が剥離され、これまで知らなかった高みから自他を俯瞰しはじめる。すると、死ぬことがこわくなくなる──。
人は身体を持つ限り、いかなる聖者も死を恐れる。身体が理屈抜きで何時までも存在し続けることを求め、死を拒否するからだ。だが、死を恐れる気持ちを消すことは出来ないとしても、これと共存する形で死を受け入れる心境を養うことはできる。そして死を受容する気持ちは、ドライに生きる人間像を描いた欧米のドラマを眺めているときなどに、ふっと心に宿るのだ。これが外国製ドラマを見る効能なのである。
フロイトは、人間には「生本能」のほかに「死を欲する本能」があると言っている。ドライな洋物ドラマが、人を「死本能」へ誘導していくとしたら、ウエットな日本製ドラマは「生本能」を鼓舞する役割を果たしているかもしれない。肉食の欧米人は、生本能が強すぎるのでこれを緩和するためにドライなドラマを好み、米の飯を食べている日本人は弱い生本能を補うためにウエットなドラマを愛するかもしれない。
では、洋物ドラマを愛好する私は、欧米人並みに生本能が強いのだろうか。いや、私がドライなドラマを愛するのは、ウエット過ぎる自分に反発するからだという上記の一節を思い出してほしいのだ。