甘口辛口

山田洋次と山田太一

2007/11/13(火) 午後 8:11
<山田洋次と山田太一>

一昨日、TVで山田洋次の「武士の一分」を見た。

私は主演の木村拓哉の出演する歌番組やドラマをこれまで一度も見たことがなかったが、今回、「武士の一分」を見て、彼が雛人形のような顔をしていることを知り、彼が絶大な人気を得ている理由を納得した。ただし、毒味役をつとめる30石の下級武士という役を演じるには少々格好が好すぎるのではないか、彼にふさわしい役柄といえば、さしずめ、10万石大名の若殿といったところではないか。

「武士の一分」は、木村拓哉演じる毒味役が役目で食べた貝か何かにあたって食中毒になり、失明するところからはじまる。夫が失職することを恐れた美貌の妻が、顔見知りの番頭(ばんがしら)に上層部への取りなしを頼みに行って、相手から手込めにされてしまう。番頭は、その後も女を脅迫して関係を続ける。

主人公はこのことを知って激怒し、妻に離婚を言い渡すのだ。そして、このままでは、武士の一分が立たぬと番頭に果たし合いを申し入れ、相手を討ち果たすのである。こう書いて来ると、この映画は従来の時代劇にはなかったほどきめ細やかに仕上げられてはいるが、これまでの映画が使い古してきた千篇一律の筋書きをそのまま踏襲していることが分かる。

そして、この映画の結末もまた時代劇の常套手段を受け継いでいる。最後に主人公は、家から一旦追い出した妻を許し、夫婦はしっかりと抱き合うのだ。

この映画を山田太一の「今朝の秋」という作品と比べてみよう。

先日、NHKアーカイブスで放映された「今朝の秋」は、テレビ用に作成された現代ドラマだから、「武士の一分」とは内容が全く違っている。しかし、妻が夫を裏切り、最後に夫が裏切った妻を許すという筋書きの点では両者は同じなのである。笠智衆の演じる老人は、息子が癌になって死にそうだと知らされ、蓼科の別荘を出て東京の病院に駆けつける。そして、同じく病院に駆けつけた別れた妻と顔を合わせる。妻は遠い昔、夫を裏切って別の男のもとに走り、以来二人は一度も会っていなかったのだ。

笠智衆演じる老人は、息子を静かに死なせてやろうとして、蓼科の別荘に連れ出す。別荘には後から老人の元妻や息子の家族も駆けつけ、息子は一同に見守られながらこの別荘で息を引き取る。息子の葬式を済ませ、二人だけになったとき、老人は元妻に、「どうだ、お前もこれからここに来て一緒に暮らさないか」と話しかける。元妻と顔を合わせた瞬間、積もりに積もった怒りを爆発させた老人も、次第に気持ちが和み相手を許す気になって来たのだ。

元妻は、老人の誘いにハッキリした返事を与えない。「迎えのタクシーが来たから」と言い残して席を立つ。彼のドラマでは、直ぐに、めでたしめでたしとはならないのだ。ここに、山田洋次ととは異なる山田太一の作劇術がある。

山田洋次の作品は、寅さんシリーズを含め、ほとんど全てが人情物語になっている。映画でもテレビドラマでも、人情物語の手法を使えば、無条件で多くの観客を感動させることが出来るのである。

ハッピーエンドで終わらなかった自社制作の文芸映画を見て、大映社長の永田雅一が舌打ちしながら語った言葉を思い出す。

「バカだなあ、どうして最後に二人が手を取り合って泣くことにしなかったんだ」

仲違いした男女や家族、あるいは友人同士が、最後に泣いて抱き合えば観客は満足する──これが長年映画界に身を置いてきた男の信じる映画制作のコツなのだ。人情物語の信者たちは、賢愚美醜、どんな人間も人情という共通の情念を持って生きていると考える。何だかんだといっても人は結局人情によって生かされているのだから──

山田洋次監督は、こうした人情哲学を中核に置いて登場人物の性格や行動を描き出す。彼の作品にあっては、どんなに特異な人物も人情の枠を踏み出すことはない。山田洋次が紡ぎ出す映画物語の落ち着く先は、涙であり、笑いであり、温かな情愛であり、そこでは各人の個性差のようなものはことごとくかき消されてしまうのだ。

山田太一の方は、全ての人間が理解し合い溶け合う人情の世界のようなものを信じていない。彼がしばしば取り上げるのは、崩壊する家族であり、離反する夫婦や恋人なのだ。人間は結局一人一人が孤独なのである。だから、「今朝の秋」において笠智衆演じる老人は妻に裏切られ、その息子の夫婦関係も破綻寸前の状態にあるのである。

山田洋次の作品では、愛と和合の人情世界が既定のものとして前提されているけれども、山田太一作品では愛と和合の世界は容易に到達できない目標として未来に設定されている。山田太一作品の人物たちに、虚無的な面影があるのはそのためである。