<老齢の小説読み>
老後をどう過ごすかというテーマを取り上げた雑誌を、読んだことがある。有名無名の老人たちが、自らの老後の過ごし方をいろいろ語っている中で、今も記憶に残っているものに、会社を退職してから日がな一日「高等数学」を解いて暮らしている元管理職や、未知の外国語を手引き書を頼りに一人で習得し始めた元役人などの話があった。
パソコン通信をするようになってから知り合った友人から、自分は高等数学をいじったり、外国語の文法書を読むのが好きだと聞いたことがある。以前に雑誌で読んだような老人が、すぐ身近にもいたのである。文法書のことでは、こんな記事を読んだこともある。どこかの保険会社の会長は、出版される英語の文法書を全部買い集めて目を通すのを何よりの楽しみにしているというのである。
こういう事例に接していると、「晩年の浄福」というものは、社会的効用などは度外視して自分一個の世界に没入するときに生まれることが判明する。ことあるごとに「効用」の有無を問われて生きてきた老人たちにとって、人生のオアシスは効用を超えた無用の世界にこそ存在するのだ。老人は、すでに十分に世のために尽くしてきている。ボランティアのことなど考えず、自分だけの楽しみを追求してもいいのである。
私が一番共感したのは、某有名会社の技術系重役の話であった。
彼は会社を辞めてから、世界文学全集を購入して、それを一冊ずつ読みはじめたという。そして、こんな面白い世界があるとは知らなかったと語っているという。この人物に限らず、老齢の小説読みは意外に多いのだが、その理由はどこにあるだろうか。
小説を読む喜びは、エゴの世界に閉塞されていた自己を解き放って、「他人の生」を生きるところにある。老齢になってから小説を読むのは、人が旅行記を読むのと同じではないだろうか。
旅行記そのものは、一般にそう面白いものではない。
しかし、自分の住んでいる地方に関する旅行記、或いは自分が前に旅した場所に関する旅行記なら興味を持って読むことができる。人生という長い旅を送ってきた高齢者にとって、たいていの小説に描かれている人間の境涯や人生は、自分が生きてきた世界にどこかが通じており、すべて身に覚えのある世界なのである。
老人は青春小説を読むことによって、自分が生きてきた青春とは別の青春を生きている若者がいることを知る。そのことで老人はひるがえって自分を以前とは違った目で眺め、自分にも別の可能性のあったことに気づく。そこに後悔を超えた尽きせぬ興味を感じるのである。
吉野俊彦は日銀出身の銀行マンで、著名な経済評論家として知られている。ところが彼は、森鴎外に心酔し鴎外に関する本を何冊も書いている。従って、吉野の元気な頃は書店の棚には彼の鴎外研究書がずらっと並んでいた。私も彼の鴎外研究書シリーズを10冊近く購入している。
彼は鴎外を「サラリーマンの悲哀」という観点からとらえて新機軸を出したのだった。鴎外がライバルの小池正直との出世競争に敗れ、かっての同級生を上司と仰がねばならなかた苦衷を、わが身の体験と重ね合わせて論じているのである。しかし、これは鴎外をあまりにも矮小化した見方で、彼の鴎外観は決して深いとはいえない。
吉野俊彦は、「灰燼」の節蔵に不快感を示し、どうして鴎外はこんなアモラルな人物を書いたのかと嘆いているけれども、鴎外の隠された素顔が明瞭に出ているのは、他ならぬこの節蔵なのである。彼は「灰燼」の節蔵を嫌いながらも、世論に抗して作品そのものを懸命に弁護するのだ。
岩波書店の発行した「座談会 明治文学史」を読むと、鴎外は出席者たちから悪口雑言に近いほど激しく酷評されている。完膚無きまでにこき下ろされているのである。例えば、出席者の一人は、西周邸にいた頃の鴎外の行動をあしざまに非難する。
田舎からでてきた鴎外を預かってくれたのが西周だった。
論者は、この西周の日記に、まだ少年だった鴎外が、西の寵愛している女中を追いかけ回すので西も手を焼いていたことが書いてあるというのだ。若い頃の鴎外は女性に対して手が早く、ドイツ留学中、「舞姫」のヒロインのほか数多くのドイツ女性を「ものにした」と伝えられている。けれども、西邸を去ったときの鴎外の年齢は13歳だったのである。鴎外はまだ13才の身で大人の女性、しかも庇護者である西周が目をかけている女を追い回すほどの悪たれだったと非難されているのだが、そんなことは果たしてあり得るだろうか。
吉野俊彦は「灰燼」が西邸時代の出来事を下敷きにして書かれたもので、主人公の節蔵が妊娠させた「お種さん」のモデルは西の屋敷にいたのではないかという想定のもとに探索に取り掛かる。そして山辺定子という女性を探し出すのである。が、鴎外と彼女の間に何らかの関係のあったかどうか、つきとめることが出来ずに終わっている。
それでも、吉野の努力によっていろいろなことが分かったのだ。
第一に、鴎外が西邸を出たのは13歳の時ではなくて、東京医学校の寄宿舎に移る直前のの15歳の時だったらしいこと。
第二に、この山辺定子問題に関連しているかどうかはっきりしないけれども、鴎外は西夫人にしばしば訓戒されていたこと。
15歳まで西のところにいたというのなら、早熟な鴎外が女中を追い回したとしても不思議ではない──と、こんなふうにして吉野は鴎外を弁護するのである。
吉野俊彦の取り柄は、とにかく熱心なことであった。
彼が様々な文献を渉猟して新事実を発掘してくれたことには、感謝しなければならない。
老年になって日本・西欧の小説を読み、自己の生と作中人物の人生を比較して人間の運命のようなものに思いをいたすのは歓迎すべきことだ。しかし、それ以上に吉野俊彦のように、愛する作家についてとことん調べながら晩年を過ごすのは、さらに望ましいことではないだろうか。
<訂正>半月ほど前に、当ブログで『三浦久の「千の風」』をアップしました。その時には、新井満氏「千の風」の発表年次を昨年だと錯覚していたのですが、事実は2003年11月でした。すると、三浦さんの発表時期とほぼ同時期ということになります。従って、ここに先鞭云々の部分を訂正いたします。なお、三浦さんが「千の風」を発表するまでの経緯については、同氏のホームページをご覧ください。
http://www.nagano.net/journal/miura/040114.html