(橋下徹弁護士)
<お調子者の時代>
長い間、図書館担当の教師をしてきて、以前から気がついていたことがある。昭和40年頃から、知的な面で生徒の両極分解がはじまったということだ。本を読む生徒たちの読書内容がぐんぐん高度化していくのに反し、その他の生徒たちがほとんど本を読まなくなったのである。
それ以前はといえば、本を読む読まないは、規格的な本をめぐってのことだった。読書好きの生徒は、武者小路実篤の「友情」から始まって、漱石の「心」や太宰治の「人間失格」に至るのが定型的なコースで、その他の生徒たちも、教師が推す規格型の推薦図書を何となく読んでいたのである。
高校生が見る映画も同じようなものだった。みんな小遣いをあまり持っていなかったから、映画館に行くとなると、結局、世間の評判になり、PTAも推薦する「二十四の瞳」や黒澤明映画になるのだった。つまり、昭和40年頃までは、本についても映画についても、標準的規格型の路線というものがあって、本や映画が好きだといってもこの路線上のことだったのである。
ところが、昭和40年代になり、家庭での文化的資産が豊かになって、生徒個人の小遣いも潤沢になると、情勢が変わってくる。。本好きの生徒は自宅にある本を読み、さらに自分の小遣いで好きな本を買って読むようになったのだ。早熟な生徒たちはチェ・ゲバラに心酔し、サルトルを読みはじめたのである。
事情は、一般の生徒たちにとっても同じだった。今までは、青春享受型の生徒たちを満足させるメディアが少なかったから、彼らは仕方なしに世間で評判になっているベストセラー本や若者雑誌を読んでいた。が、昭和30年後半からTVの世界に高校生を魅了するようなバラエティー番組やアイドル歌手による歌番組が現れてきて、様相が一変するのである。
昼休みになると、弁当を食うのもそこそこに会議室にやって来てTVに見入る生徒が出て来た。その様子を見に行くと、彼らは「笑っていいとも」というような番組を見ているのだった。TV内の見学者の笑声と生徒の笑声が同じ調子で同時に重なっているのを眺めていると、少々怖くなった。バラエティー番組に熱中する視聴者の意識が、日に日に均質化していくように思われたからだ。
一つの国が豊かになるということは、全ての人間が自分の身の丈にあった世界を発見できるということであり、そこに安住して「向上意欲」を忘れてしまうということなのだ。国が豊かになると、大多数の国民が現状を変えようとしないで、現状を享受する安穏志向型になるのである。
昭和50年代、中曽根康弘式の新自由主義が全盛になると、日本社会の無思想性は一段と進行した。ヒューマニズム、理想主義、永久平和主義というような戦後社会を支えた市民的モラルは力を失い、「軽いキャラクター」が歓迎されるようになったのだ。この傾向は進行する一方だった。
世界の子供たちを対象にした学力テストで、日本の成績が年々落ちて行くのは当然のことといえる。年ごとに順位を落としていく日本よりもさらに下方に、イギリス・ドイツ・フランスなどの先進国が位置している。こういう現実を見ると、学童の成績が低下するのは、成熟した国家を襲う宿命なのである。
上位で頑張っているのは、福祉の行き届いた北欧諸国と、英・独・仏・日などを追いかけている準先進国(韓国その他)なのだ。日本が学童の成績を押し上げようとしたら、もう一度、過去の準先進国に戻るか、さもなければ福祉国家に転身する以外に方法はない。
知的な面で二極化が進んでいるといえば、エリートと大衆という構図を思い浮かべるかもしれない。だが、一流大学を出て高級官僚になったり、大企業に就職したりする人間が知的なのではない。学歴社会を順調に乗り切っていく学校秀才たちが、豊かな教養を持ち、すぐれた識見を持っていると考えるのは錯覚でしかない。受験戦争に勝ち抜くには、教養や見識は邪魔になるのだ。世のエリートは、中身のない空疎な人間になることで、現在の地位に這い上がったのである。
TVがバラエティー番組で塗りつぶされている当今、そのTVで人気を博するのは「軽いキャラ」を持ったお調子者たちである。今度、大阪府知事選挙に立候補することを表明した橋下徹弁護士も、どうやらその典型的な一人らしいのである。
ワイドショウを見ていて知ったことだが、彼はその前日まで選挙に出ることを否定し、「立候補の可能性は2万パーセントない」と断言していたそうである。自分の気持ちを表現するのに150パーセントと表現するのはちょいちょい耳にするが、2万パーセントまで風呂敷を広げる例は聞いたことがない。如何にもお調子者らしいオーバーな言い草である。
この人物の出演するTV番組を見たことがないので、橋下弁護士を知るためにインターネットで調べてみた。すると、彼は光市母子殺人事件の弁護士団を非難して、TV視聴者に懲戒請求を行うよう呼びかけたり、「私は改憲派で、核保有を肯定する」と放言したり、中国蔑視の発言を繰り返していた。
自分が弁護士でありながら、仲間の弁護団に対する懲戒請求を呼びかけるなど.到底あり得ない話である。弁護士はどんな極悪人の弁護をも行う立場にあるのだ。もちろん、依頼者の行動が、自らの信条に反する場合には、弁護を断る自由はある。が、いろいろな事情で相手を弁護する者がいないときには、自己の信条に反してでも被告を弁護するのが弁護士たる者の職業倫理ではないのか。
光市の事件に多数の弁護士が駆けつけたのは、裁判の局面が被告を死刑にするかどうかの一点に絞られてきているためだ。だから、死刑反対の信条を持つ弁護士たちは座視することが出来ず、応援の為に駆けつけ、弁護団がふくれあがったのだ。
そうした事情を百も承知で彼が懲戒請求を呼びかけるのは、世の多数派が光市事件の被告を死刑にすることを望んでいると読んでいるからだろう。彼が核保有を肯定するのも、日本人の隠された意識のなかにそうした志向が潜んでいると感じているからだ。
マンガ愛好をPRして若者の人気を得た麻生太郎も、タカ派的問題発言を繰り返していた。彼は、バラエティー世代がアンチ理想主義・アンチヒューマニズム・アンチ永久平和主義というような心情を持っていることを、自らの心情を通して察知していたからだ。
橋下弁護士が共感している石原慎太郎も、基本的にはお調子者のポピュリストである。普段ゴーマンだった彼も、都知事選挙前には打って変わって低姿勢になり、選挙が済んだら直ぐにまたゴーマンに戻ったといった具合に、お調子者らしさを存分に発揮している。
橋下弁護士・麻生太郎・石原慎太郎らのお調子者たちは、無思想にして「ちょい悪」志向のバラエティー世代を支持基盤にしている。そのくせ彼らは、若者に規律をたたき込まなければならぬ、そのために徴兵制も必要だというようなことを言っている。このへんに彼らの危なっかしさがある。もし彼らが本気になってその規律至上主義を実現しようとしたら、バラエティー世代が歯を剥き出して反撃するのは必定だからだ。
彼らは自分の支持基盤である「大衆」が、タカ派的な意識を下地にして生きていることを知っている。だから彼らは中国や韓国を蔑視する発言を重ね、夜郎自大的な自国賛美を繰り返すのだ。成る程、民衆の意識の中核には、ナショナリズムがある。だが、それと同じ強さで人道意識も存在する。この両者は表になったり裏になったりしながら併存しているのだ。
現代はお調子者が受ける時代である。だが、彼ら人気者も、調子に乗りすぎると危ないということを忘れない方がよい。安部晋三の例もあるのだから。