<美貌の皇后(改編版その1)>
1章
伊賀ノ鶴丸にとって意外だったのは、当麻ノ鴨継がぱっとしない中年男だったことだ。鶴丸は当麻ノ鴨継に弟子入りするに当たって、相手が都で評判の名医だから、彼の風貌もさぞ立派だろうと想像していたのである。ところが当麻ノ鴨継は、顔も貧相なら体もやせこけた、しなびたような中年男だったのである。
「案じずともよいぞ。習うより慣れろと申す。わしはこのように足萎えの身だ」と鴨継は入門したばかりの鶴丸に言った。「おぬしの役目は、まず第一にわしの面倒を見ることだ。そうしながら、追々、見よう真似ようで医術を覚えて行けばよい」
「はい、心して勤めます」
「おぬしは、大学寮では評判の秀才だったと聞いている。どうして大学を中退したのかな?」
と尋ねながら、鴨継はちらっと鶴丸の顔を見た。とぼけた表情をしているが、目の奥に油断のならない光がある。鶴丸は、(成る程、これだな)と思った。
「大学では明経道科で学んでいましたが、どうも四書五経は私の性に合いませんので・・・・・」
「それで医者になって後宮の女どもを診たくなったわけか」と言って、鴨継はにやっと笑った。「しかしな、後宮に出入りするには、おぬし、ちょっと男っぷりがよすぎるな。おぬしを見て女どもが騒いだり、熱を上げる馬鹿な女房が出てきたりしたら、取り締まりの老女はきっといい顔をしないぞ。男の廷臣たちも焼き餅を焼くだろうしな」
「・・・・・」
「後宮付きの医者には、本当はわしのようなカタワ者がいいのだが、師弟そろって不具者という訳にも行くまい。両方ともまともじゃないということになると、それはそれで問題になるからな」
こうした問答の後で、伊賀ノ鶴丸は当麻屋敷の奥にある小部屋を与えられて、そこで寝起きすることになった。部屋は鴨継の居室の隣りにあったから、用事があれば鴨継はすぐに鶴丸を呼びつける。身の回りの雑用を処理するのは無論のこと、用便の都度鶴丸が鴨継を抱き上げてオマル(便器)にまたがらせてやらなければならなかった。かかえ上げてみると、鴨継の体は軽く、足は萎え縮んで子供の腕ほどの太さしかないのだ。
屋敷には、老女が二人の下女を使って家事に当たっていた。ほかに吉(よし)と呼ばれる屈強な下男がいて、外回りの仕事をしている。御所から迎えの牛車がやってくると、この下男が鴨継を背負って車のなかに運び入れるのである。
鶴丸の新しい生活が始まった。彼が薬箱を抱えて牛車の後に従い、御所の門に到着すると、二人の舎人が待ちかまえていて、鴨継を担架仕立てにした板に乗せ、後宮に運び込む。鶴丸も、その後に従うのだ。
鴨継はまず染殿にいる皇后を診察し、それから別棟にいる中宮の診察をする。診察といっても、相手は几帳の奥にいて、問診も老女を仲介にして行うから、カンを頼りの診断になる。処方が決まると、鶴丸は持参の薬研を出して、その場で薬を調合するのである。
鴨継はどの棟に行っても、女たちから歓迎された。風邪をひいた女房を診るときには、「夜遊びが過ぎるからだぞ」とからかったり、下痢をした女ノ童には、「食いしん坊の罰が当たったな」と冷やかしたりする。そういうあけすけな物言いが、手当を受ける女たちの気持ちを楽にするのだ。
しかし後宮で鴨継の人気があるのは、それだけが理由でないことを鶴丸は知るようになった。鴨継は「術」を使うのである。
鶴丸が鴨継の術に気づいたのは、彼に命じられて本の頁をめくっているときであった。人使いの荒い鴨継は、本を読むときには決まって壁に寄り掛かる。そして書見台の脇に控えている鶴丸に本をめくらせるのだ。鶴丸は、鴨継が「次」と命じるたびに頁を一枚一枚めくってやる。だが、鴨継が「次」という速度は一定していなかった。途中で考え込んだりすると、鴨継は何時までたっても「次」とはいわない。それがあまり長くなると、鶴丸はついうとうとして眠り込んでしまう。
ある日、そうやって眠り込んだ鶴丸がふと目を覚まし、薄目を開けて様子をうかがうと、誰も手を出していないのに、そして別に風が吹き込んでいるわけでもないのに、本の頁がひとりで一枚ずつめくられているのだ。
それは、鴨継が壁に寄りかかったまま、気合いのようなもので書物の頁を動かしているとしか考えられない光景だった。彼は薄目を開けて、なお観察を続けた。そして鴨継が術を使って頁をめくっていることを確認した。
「先生、それは何ですか。陰陽道の術ですか」
突然声をかけられた鴨継は、「見ていたのか」と言って、薄く笑った。「まあ、手妻みたいなものだな」
「冗談言ってはいけません。あれは手妻でも、オマジナでもないですよ。何か術を使っているんだ」
「何を怒っているのだ」と鴨継は、いきり立っている相手の心を見通しているような口ぶりで、「お前はああいう術を知っている癖に、どうして他人に本をめくらせるのだと、わしのことを怒っているんだろう。しかしな、術を使うと疲れるのだよ。お前もためしてみると分かる」
鴨継は書見台を片づけて床に筆を一本置くように鶴丸に命じた。そして鶴丸をその筆を挟んで自分の反対側に座らせてから、
「筆を自分の方に転がしてみるがよい。きっと、お前にも出来るはずだ」と言った。
鶴丸は目の前の筆をにらみ、こちらに引き寄せようと全身で力んでみたが、もちろん筆はぴくりとも動かなかった。
「そんなふうに力んでも駄目だ。雑念を捨てて、筆を静かに眺めるのだ。すると、まわりのものがすべて消えて、おぬしと筆だけになる。澄んだ水の中で、筆と向き合っているような気持ちになる」
続いて、鴨継は教える。
「よいか、心の中で筆に向かってやさしく語りかけるのだぞ、こっちにおいでとな」
そんなことを言われても、筆を相手に優しい気持ちなどになりようがなかった。彼が何とか指示されたとおりにしようと苦心惨憺していると、温かな気配のようなものが心の中に滑り込んできた。明らかにそれは鴨継の体から発し、宙を越えて鶴丸の心に流れ込んできたのであった。
その気配のような、水のようなものが心を充たしはじめると、それに誘われるように鶴丸の心にも何処からともなくあたたかな湯のようなものが湧いてきた。鴨継からやってきたものと、彼自身の内部から湧き出たものがひとつに融合した。
(こっちにおいで)と鶴丸は心の中でささやいた。
すると、内圧を高めて、はち切れそうになっていた温かなものが、ふっと前方に溢れ出て行って、筆を包んだ。筆はころころと生あるもののように鶴丸の方に転がってきた。
「おぬしにも、ちゃんと出来るではないか」
と、鴨継が鶴丸をほめた。おだてるような口調だった。
「いえ、先生の力が私の体に流れ込んだからです」
鴨継は、意外な言葉を聞いたかのように顔を上げた。そして警戒するような目で鶴丸を見つめた。
「おぬしに、それが分かったのか」
「はい、水の流れのように先生の力が私の体の中に入ってきました」と鶴丸は答えた。「すると、それが呼び水になって自分の力が後から湧いてきたのです」
「わしは、これまでも多くの者に力を貸してきたが、それに気づいた者は誰もいなかった。皆、筆を動かしたのは自分の力だと自惚れていたのだ。しかし、お前は・・・・」
と、言って鴨継は黙り込んでしまった。
(つづく)