<美貌の皇后(改編版その2)>
伊賀ノ鶴丸の「術」は少しずつ進歩していった。あれ以来、彼は「術」を身につけるために懸命の努力を重ねて来たのである。
初めは、自室の机に筆を置いて転がそうとしたが、どう頑張っても駄目だった。そこでドングリなら簡単に転がりそうな気がしたので、庭から手頃なものを一つ拾ってきて机に乗せ、これを動かすことにした。鴨継から教えられたように、雑念を去ってドングリと正面から向き合い、心の中でやさしくドングリに声をかけ続けたのだ。だが、ドングリはぴくりとも動かなかった。
やがて鶴丸は、ドングリを動かそうとする気持ちが、体のどこかを緊張させ、心の中に働く「心気」を削いでいることに気づいた。最初に為すべきことは、体の各部署に配当されている肉体的な力を抜き去ることであった。次には、抜き取った力を内面化して「心気」に変換するのである。
大学寮に在籍していた頃、天地の間に「正気」があり、その正気には人や物を動かす力があると教えられたが、「心気」というのは、この「天地正大の気」の変種かもしれなかった。
やがて鶴丸は、一切の打算を捨ててドングリそのものを眺めるようになった。外側の皮を眺めていると、その裏側の細い繊維で出来た内皮まで見えてくる。さらに内視を続けると、その内皮に包まれている果肉も、果肉に刻まれた皺もありありと見えて来た。それだけではなかった。ドングリ全体の重みがどのように配分されているか、ドングリの重心が何処にあり、内部構造がどうなっているかということまで見えてくるのだ。
机上のドングリを眺める鶴丸の目に、それと重なるようにして、もう一つの図像が映じてくる。透視されたドングリの内部構造図である。鶴丸には、ドングリの何処に力を加えれば、どの方向に転がるか、手に取るように理解した。
(そうか、これからが問題だぞ)と鶴丸は思った。
ドングリの何処に力を加えるべきかは分かった。だが軽々に「心気」を使ってはならない。心気を加圧のために使うのは控えるべきなのだ。心気を押す力として使うのではなく、ドングリを迎え入れるための受容力として利用するのだ、溜まり水を誘導するのに、その先々に溝を掘ってやるように。
(おいで)と、鶴丸はドングリに向かってやさしくささやいた。
ドングリは、ころころと鶴丸の方に転がってきた。彼はドングリを机の縁のところで止めて、今度は、(行け)と命じる。すると、ドングリは、反転して逆方向に戻って行く。彼は暫くの間、ドングリを机上であちこち動かしていた。疲労が意識され始めた。鴨継が言っていたとおりだった。心気を使うと、労働をした後のように疲れるのだ。そしてその疲労感は、心気を加圧力として使ったときに最も大きくなるのである。
ドングリで成功してから、鶴丸は一層熱心に練習を続けた。そして三ヶ月もすると、自分を虚にして心気を一点に集中すれば、手箱のなかのものもハッキリ透視できるようになった。こうなると、自分の能力を試したくなる。
――夕方、下男の吉が泉水の中に半身を浸して、水に浮かぶゴミを取り除いていた。
「ちょっと、話がある」と鶴丸が声をかけると、吉はざぶざぶ音を立てて泉水から出てきた。
「何だね?」
「お前は、今夜もバクチ場に出かけるだろうな。私も一緒に連れて行ってくれないか」
「お前様の来るようなところじゃねえよ」
「しかし、賭場には内裏の舎人なんかも顔を出すそうじゃないか」
賭場に案内してくれれば、少しばかりだが謝礼を出すというと、吉すぐ承知した。
その夜、吉が連れて行ってくれたのは、当麻屋敷から十町程離れたところにある天皇の生母の住まう屋敷だった。賭場は、その屋敷の牛小屋に隣接した車置き場で開かれていた。土間には十数人の男たちが集まって、すでに勝負を始めている。
壺振りをしているのは、十歳になるかならぬかの童子で、この屋敷で牛の口取りをしている少年だった。子供なら八百長をしないだろうと皆で相談の上、雇い入れたという。
鶴丸と吉が男たちの輪のなかに割り込んだとき、反対側にいた小役人らしい男が片手をあげて鶴丸に合図をした。小太りに肥った色白の男である。舎人の守屋赤馬だった。鴨継を担架に乗せて染殿に運び込む仕事をしている舎人だから、面識がある。
壺振りが甲高い声で、「丁はありませんか、丁ありませんか」と尋ねている。丁を張る客が少ないのだ。吉が、「おう、丁に二枚」といって、銅銭二枚を投げ出した。壺を開けると、サイコロの目は四だった。吉が、「ちぇ」と舌打ちをした。
勝負は続いている。鶴丸には壺の中の賽の目がちゃんと読める。隣にいる吉が、鶴丸にも勝負に加わるようにしきりに勧める。それで、彼は何回か賭けてみた。壺振りが壺を開けると、彼が透視した通りの結果が出るのである。
夜が更けてきて、灯明皿の油が尽きて来たらしく、ジ、ジと音を立て始めた。何の商売をしているとも分からない半白の頭をした男が、「では、今夜はこの辺で」と声をかけた。この初老の男が、賭場の世話役のようだった。
吉と一緒に牛小屋をでたところで、うしろから守屋赤馬が追いついてきて、鶴丸に話しかけた。
「水際立った勝ちっぷりでしたな。あんた、素人じゃないね」
それから半月ほどして、その守屋赤馬が内裏の渡殿で鶴丸に話しかけてきたのだ。
「面白い賭場があるのですがね、御一緒しませんか」
「例のところですか」と鶴丸は質問した。
「いや、いや、あんな乞食バクチ場とは違いますよ。ずっと格が上で、二位の役人やら京の商人も集まります」
その夜、守屋赤馬が迎えに来て、格上だという賭場に案内してくれた。今度のは、近衛の中将の住まう屋敷の邸内にあった。母屋とは離れて建てられた壺屋が賭場になっていた。この小屋は武具を修繕する工事場だから、壁際に修理中の弓や、胸当てなどが押しつけてある。
集まってきた十数人の客は、皆、身なりがよかった。壺振りも目つきの鋭い若者で、賭け金も銅貨は少なく、大体が天平元宝銀だった。
守屋赤馬は、慎重に構えていた。すぐには勝負に加わらないで、一発勝負の機会をうかがっているのである。
そのうちに丁の側に賭け金が集まり、壺振りが、「半ありませんか、半ありませんか」と催促する局面がやってきた。守屋赤馬が体を鶴丸の方に寄せて、低い声で尋ねた。
「勝負していいかな?」
この前の賭場ではサイコロは一つだけだったが、今度は壺の中に二つのサイコロが見えた。賽の目は三と六になっている。守屋赤馬は鶴丸が頷いたのを目にすると、持ち金の全部を半に賭けた。
壺が開けられた。――「半」
一座がどよめいた。
守屋赤馬はこれまでにない大金を手にしたのである。
(つづく)