<美貌の皇后(改編版その3)>
明子皇后が「物の怪の病」に取り付かれたのは、鶴丸が医家の門に入ってから一年ほどたったころだった。長い梅雨が明けて、内裏の階に強い日差しが照りつけるようになったある日、鴨継と鶴丸は出仕早々染殿の老女綾戸から、昨夜、后が物狂いの発作に襲われたと告げられたのだ。
老女の話によると、皇后は夕食後几帳のなかで暫く臥せっていたが、やがて急に激しく泣き出した、と思うと几帳から躍り出てきて、髪を振り乱して寝殿の外に走りだそうとしたという。女たちは総出で皇后を取り押さえ、何とか寝かしつけたが、夜が更けると、皇后は再び泣き出し、戸外に飛びだそうとしたという。それで、昨夜は女房たちが交代で几帳のなかに入り、徹宵で警戒にあたったというのである。
この日から、皇后は昼夜を問わず物狂いの発作をみせるようになったのである。
「お后さまは、物の怪に取り憑かれたのでしょうか」
と老女は、憂わしげな顔で度々鴨継に尋ねたが、鴨継は何とも答えようがなかった。なぜかと言えば、皇后が狂い出すのは鴨継や鶴丸のいないときに限っていて、二人とも物狂いの現場というものを見たことがないのである。
一度だけ、鴨継と鶴丸が染殿に足を踏み入れたとき、几帳の中で皇后が女房たちともみ合っているのを見たことがある。女房たちが、「お后さま」といって取りすがるのを振り払って、皇后は几帳から飛びだそうとしていた。このときも、皇后は侍医が来たと知ると急に暴れるのをやめて、静かになったのだ。
実は、鶴丸は皇后が物狂いを始めたと聞いて、もしかすると后の顔を見ることが出来るかも知れないとひそかに期待していたのである。後宮に出仕するようになって一年になるのに、彼はまだ、比類のない美貌の持ち主と噂されている皇后の顔を見たことがないのだ。同じく天皇の寵愛を受けている中宮のところに行くと、彼女はたいてい広間で女房や女ノ童と話をしていた。そして侍医が来たからといって、几帳にこもることもなかった。だが、皇后はひどく神経質で侍医とすら顔を合わせず、部外者に姿を見せることは絶えてないのである。
当麻ノ鴨継としても、物狂いの実情を掴むことが出来なければ、手の打ちようがないのであった。だから鶴丸に命じて、鎮静剤を調合させ、これを皇后に飲むように指示して様子を見るしかなかったのである。
皇后狂乱という噂が御所一円に流れるようになった。
このままだと実父の藤原良房の権勢も揺らぎかねなかった。良房は天皇を動かして金剛山頂で修行中の葛木聖人のところに勅使を派遣して、彼を禁裏に招聘する手はずを整えた。葛木聖人が修法にたけていることは、京でも評判になっていた。医術が頼みにならないなら、後は祈祷にすがるしかないのだ。
葛木聖人は、年の頃35,6、筋肉質の体で、鷹のように恐ろしい目をした修行僧だった。老女をはじめ女房たちは、まず、この猛々しい聖人の風貌におそれをなした。彼はまだ少年の面影を宿している17,8の弟子を従えて染殿にはいって来ると、女房たちに命じて護摩壇を運び込ませ、広間の四隅に聖水を撒き、祈祷の準備を始めた。その間、几帳の脇に控えている鴨継と鶴丸には目もくれなかった。一切の準備が済むと、聖人は立ったまま女たちを見回して宣告した。
「私はこれから退出して身を清めて参る。祈祷は夜に入ってからだ。おのおのがたも、それまでに身を清めておかれたい」
それから、彼は鴨継と鶴丸の方に向き直った。
「お二人には、今晩、この場に列席されることを遠慮していただく。今夜の修法は女人(にょにん)のためのものだからな」
「私どもは侍医ですぞ。この場をはずす訳には参らぬ」
と鴨継が、反論する。すると、聖人は分かった分かったというように手を振った。
「今晩だけのことじゃ。明日になれば、私は修法をおえて金剛山に戻る。お手前は、その後いつものように出仕して、霊妙な手腕を発揮されるが良かろう」
聖人から皮肉混じりにそういわれれば、押し返して抗議することも出来なかった。鴨継と鶴丸が当麻屋敷に戻って一夜を明かしている間に、聖人は修法によって皇后に取り憑いていた古狐を追い出し、物の見事に「物の怪の病」を直してしまったのだ。
翌日出仕すると、禁裏ではどこでもこの話で持ちきりだった。だが、鶴丸は女房や女ノ童が口々に語る昨夜の一件に、何かしらひっかかるものを感じた。もし予め飼い慣らした狐を寝殿の床下に繋いでおけば、怯えやすい女たちを騙すのはわけないことだと思われた。彼女らは、皇后に取り憑いていた狐が女ノ童に乗り移り、床下まで逃げ延びて、ついに聖人の手で絡め取られたと直ぐ信じてくれるのだ。
昼食を取りながら、鶴丸がこういう推測を告げると、鴨継も同じようなことを考えていたらしかった。
「狐が乗り移ったという女ノ童を調べる必要があるな」
「はい、これから調べてみます」と鶴丸は請け負った。
だが、鶴丸が老女に問いただすと、問題の女ノ童は動揺が激しく泣いて家に帰りたいというので、親を呼び寄せて実家に引き取らせたという。鶴丸は山科にある女ノ童の実家を訪ねたが、土器を商う商売をしている父親は、言を左右にしてどうしても女ノ童に会わせてくれなかった。
御所に戻ってそのことを報告すると、鴨継は、苦笑いした。「まあ、よい。放っておけ」
鶴丸が山科に行っている間に、聖人はこの後も染殿に留まることに決定していた。皇后が再び物の怪に魅入られることをおそれ、天皇と良房が言葉を尽くして聖人に留まることを頼んだからだった。(これは、ただでは済まないぞ)と鶴丸は思った。鴨継は毎日染殿に出仕している。聖人が殿中に泊まりこむことになれば、二人が衝突するのは必至だと思われたのからだ。
鶴丸は、二人が顔を合わせた瞬間から、互いを嫌悪し合っていることに気づいていたのである。聖人の方は見るからに弱々しい風体をした鴨継に侮蔑の目を向け、その鴨継が女房たちと仲良く談笑するのを嘲けるような表情を浮かべて見ていた。
鴨継が、聖人の強靱な体躯と荒々しい性格に生理的な嫌悪を覚えていることも明らかだった。二人は、これという原因がなくても、互いに憎み合うように生まれついているのだった。
皇后の治療を巡って、聖人と鴨継を競わせるような結果にしてしまったのは藤原良房らの手落ちだった。
二人が顔を合わせるのは午後になった。鴨継は当麻屋敷から出勤して来ると、まず皇后の病状を確かめ、それから中宮や女官たちの局を歴訪して女たちの健康状態を把握する。病人がいれば手当をしなければならない。それらの仕事を済ませて、鴨継が染殿に戻ってくるのは午後になる。一方、徹夜で染殿に詰めていた聖人は夜が明けると客殿に下がって眠りを取り、昼食後に再び染殿にやってくる。こうして、両者は午後の数刻を四間ほどの距離を隔てて座り、皇后の様子を見守ることになるのだった。
梅雨が明けてから、毎日蒸し暑い日が続いた。午後ともなれば、染殿に詰めている女官たちは気だるげに扇子を使うだけで、口をきく者もいなくなる。なかには、居眠りをする者も出てくる。だが、聖人と鴨継の間では、陰湿な争いが続いていた。
鴨継、聖人が顔をそろえて染殿に詰めるようになって数日たった。
鴨継の背後に控えていた鶴丸は、ふと、聖人の頭上二尺ばかりのところに透明なかたまりのようなものが浮遊していることに気づいた。それは透明ではあるけれど、精気を放って、今にも動き出そうとしていた。鶴丸が、その得体のしれないものを目を見張るようにして見つめていた。すると、今度はこれに対抗するように鴨継の頭上にも透明なものがふわっと浮かびあがったのである。
二人の頭上に生まれた透明なものは、うちに複雑な揺らぎを含んでいる点で春の野にうまれる陽炎に似ていた。それが精気を放って動き出そうとしているところは噂に聞く生魂のようでもあった。そして、実際に聖人の頭上の透明体は、不意に鴨継の透明体に向かって襲いかかったのである。
鴨継の透明体も素早く反応した。鴨継の透明体は、聖人のそれを迎えて空中で激しく絡み合い、もつれ合った。二つの透体が宙で必死の戦いを演じているのに、鴨継も聖人も二人とも何事もないかのように静かに座ったまま表情を動かさないでいる。変化といえば、聖人の首筋の動脈が今にも破れそうなほど怒張していることだけだった。
広間には20人を越える女たちが詰めているのに、聖人と鴨継の争いに気がついている者は誰もいない。聖人の弟子も、何も知らないでいる。二人の凄まじい争いを目にしているのは、伊賀ノ鶴丸一人だけだった。
(つづく)