<美貌の皇后(改編版その4)>
聖人と鴨継の間の争いは、日を追って激しくなった。
両者が宙に放った生魂のようなものは、二羽の猛禽が空中で戦うように互いを襲うのだった。正面からぶつかったと思えば離れ、離れたと思えば絡み合い、絡み合ったままで床近くまで落下したりする。そんな終わりのない戦いが、広間の空間狭しと何時までも続くのである。眺めている鶴丸の目がくらくらしてくるほどだった。
その透明なものは、本当に二人の生魂だったかもしれない。両名とも何事もないかのように静かに端座している。しかし彼らは、急速に体力を消耗させていった。鶴丸は、夜、鴨継を抱き上げて臥所に寝かしてやるとき、相手の体重が日ごとに軽くなって行くことをはっきり感じた。
前々からやせている鴨継の場合は、その変化はあまり人目につかなかった。だが、聖人の衰え方は誰の目にも明らかだった。彼の肩は肉が落ちて尖り、額には青筋が浮かび、血走った目だけがぎらぎらと異様に光っている。祈祷のために聖人が心身をすり減らしていると誤解した老女の綾戸は、あまり根を詰めないでと、事あるごとに聖人に忠告していた。
二人が必死の争いを始めて十日ほどたった。このままでは共倒れになるのではないかと鶴丸が心配していた時に、事件が起きたのである。仕掛けたのは、鴨継の方だった。
その日、遣り戸をすべて開けはなった室内には、微風が吹き込んでいた。その風が几帳の紗を前後に動かしている。紗がふわりと宙に舞い上がったのを見て、鶴丸はおやと思った。紗そのものは軽く織られているけれども、厚手の総で縁取りしてあるので、ちょっとのことではめくれることはないのだ。誰かが術を使ったのである。鴨継の仕業に違いなかった。
鶴丸は、ハッと思って鴨継の様子をうかがった。しかし、この時聖人がふらりと立ち上がったのに気づき、その方に視線をやった。聖人の背中の向こうに紗のはためく几帳があり、几帳の向こうに侍女に髪を梳かせている皇后が見えた。皇后は全く無警戒で、体を次女にゆだねている。その姿態が、変に誘惑的だった。
聖人は皇后に目をやったまま、よろめくような足取りで几帳に近づき、紗を排してその中に入ろうとした。
「あれ」と侍女が声を上げた。そして慌てて聖人の前に立ちふさがった。
聖人は侍女を突き除け、逃れようと中腰になった皇后の背中に被さるようにして抱きついた。聖人は、仮面のように無表情だった。
「鶴丸!」と鴨継が声をかける。
その声に背中を突きとばされたかのように、鶴丸は無我夢中で聖人に飛びかかり、相手を羽交い締めにして引き倒した。聖人は、たちまち床に組み伏せられた。鶴丸は聖人の背中を片膝で押さえつけ、両腕を後ろに回させた。衰弱してふぬけのようになっている聖人は、子供のように無力だった。
鶴丸は膝で聖人の動きを制しておいて、皇后の方を振り向いた。
「紐はありませんか」
この時になって鶴丸は、初めて皇后の顔をまともに見たのだった。噂の通り、皇后は美しかった。どんな人間ともかけ離れた美しさで、艶のある白肌や赤い唇など、何か生まれつき体質が違っているような感じなのだ。
鶴丸に声をかけられて皇后は、ためらっていた。が、布の下から紐を抜き取って鶴丸に手渡し、急いで乱れた裳裾を掻き合わせた。皇后の切れ長の目元に含羞の色が浮かんだ。体温の残る絹紐が、鶴丸には人肌のように感じられる。紐を手渡したときとき、皇后の顔に瞬間少女の面輪の浮かんだことが鶴丸の目に残った。
鶴丸が聖人を後ろ手に縛り上げている間に、女房たちが馳せ集まって来て、皇后を急いで次の間に連れて行った。女ノ童の通報を受けて舎人たちも集まって来る。警護職の役人が、急報を受け部下を引き連れてやってくる。
役人に聖人を引き渡し、舎人らも立ち去ったあと、短い間、室内に鶴丸と鴨継の二人だけが残った。
鴨継は、いつもの場所に座ったまま、無言でいっさいを見ていたのであった。彼は、鶴丸に向かって薄く笑って見せた。術を使って聖人に几帳の向こうを垣間見せたときから、鴨継はこうなることをすべて見通していたのである。
「一件落着だな。わしらも引き上げよう」
染殿を出たところで鴨継は、乗っていた担架を止めさせた。聖人の弟子の智海が途方に暮れたように、ぼんやりその場に立っていたのだ。
「どうした? 行くところがないのか」と鴨継が尋ねた。
「───」
鴨継は暫く考えていたが、鶴丸に彼を屋敷に連れてくるように命じた。
──藤原良房と天皇は、聖人をどう処分したらよいか困惑していた。葛木聖人は高徳の誉れ高い「聖者」であり、皇后の物の怪の病を治してくれた恩人だった。本来なら死罪に処すべきところだったが、容易に決断が下せないのである。
鶴丸のところに守屋赤馬が訪ねてきた。彼はあの騒動の時に、他出していてその場にいなかったのである。
「大活躍だったらしいな。いまや、あんたは人気者だよ」と守屋は言った、「内裏の女どもは、おぬしに夢中だそうじゃないか」
「馬鹿な」
「おぬしばかりじゃない、鴨継殿の評判も馬鹿にいいぜ。聖人の弟子の面倒を見てやっているんだってな」
「ああ、行くところがないんだ」
鴨継が聖人の弟子を引き取ったのは、善意からではなかった。彼は智海という小坊主を手なずけて、何かに利用しようとしているのだ。。
鴨継は、まず智海と聖人の関係を巧みに聞き出した。智海は金剛山麓に住む猟師の子供で、父親が弓で射殺した母狐の子供を大事に育て、すっかり飼い慣らしてしまったのである。それを知った聖人は、智海を弟子に貰い受け、この狐を加持祈祷に利用することにしたのである。
皇后に対して行った修法も、何時も彼が地方の分限者を相手にやっていた詐術を繰り返したものだったが、最後に聖人が、「行け!」といって狐を放してやったところだけが違っていた。これまでは、狐を目立たぬところに繋いでおき、修法の後でその狐を引き出して、「こやつが病人に取り憑いていたのだ。これは、拙僧が山に連れ帰って、十分言い聞かせてやることにしよう」といって持って帰るところだった。ところが今度は狐をその場で放してしまったのだ。
「あれは、私の方を振り返えりながら逃げていったんです」と智海は泣きそうな顔でいった。
「さぞ、悲しかったろうな」と鴨継。
「はい、今も町に出るたびに探しています。もう京にはいないかもしれんけど」
鴨継は智海が何かいうたびに、「そうであろう、そうであろう」と同調する。そして、相手が言おうとしていることを、自分の意見として先んじて語ってみせるのだ。鴨継には、智海の気持ちなど本を読むように分かるのである。
数日すると、智海は自分の意志と鴨継のそれとの見分けがつかなくなって、鴨継の言うことを自分の発意のように感じ始めた。最早、智海は鴨継の意のままに動く人形であった。それを見澄まして、鴨継は意外なことを言い出したのだ。
「このままだと、お前の師匠は処刑されるぞ。お前はやさしい若者だ。師匠の死をむざむざ見過ごすつもりはあるまいな」
「はい」
「ならば、司直のところに出向いて、聖人と最後の別れをしたい、聖人と会わせてくれと頼み込むのだ。そして、聖人に会ったら、こういうがよい」
鴨継は、このままでは聖人は必ず死罪になる、それを逃れる方法は、聖人が死を望んでいると良房らに思わせることだというのである。聖人が死んで幽鬼になって皇后への想いを遂げようとしていると信じ込ませれば、彼らは聖人を釈放するに違いない──。
智海が鴨継の言葉を聖人に伝えると、彼は牢役人たちが聞いているところで、皇后をわがものにするために今ここで死んでみせる、そして直ちに后の寝所に乗り込んで想いを遂げてやると呟いて見せた。鴨継は、聖人が生に執着していることを見抜いていたのだ。事態は鴨継が予想したようにトントン拍子に進んだ。鴨継は、聖人が釈放されると智海に路銀を与え、二人で下野の国に住む鴨継の知人のところへ落ち延びるように手はずを整えてやった。
しかし、鴨継はなぜ聖人を京から追いやったのだろうか。鴨継の意図を読みかねている鶴丸に向かって、彼は「おぬし、鬼になれ」と言い出したのである。
(つづく)