甘口辛口

美貌の皇后(改編版その6)

2008/1/5(土) 午後 7:53
<美貌の皇后(改編版その6)>

打ち合わせの時刻に、雑色用の通用門に行って戸をたたくと、守屋赤馬が待っていてなかから戸を開けてくれた。

「こっちだ」
守屋の後に付いていくと、木工寮の資材置き場に連れて行かれた。守屋は壁に立てかけてある材木の後ろから縫いぐるみを引っ張り出した。

二人分の縫いぐるみを調達する費用は、鴨継が出してくれた。鴨継は、鶴丸が守屋と一緒に行動すると聞いて意外そうな顔をしたが、「守屋を見張っていないと、何をするか分からないので」と説明すると、「それもそうだな」と納得してくれた。実際、守屋には何をするのか分からないようなところがあった。

御所の構内には、ところどころに篝火が燃えているだけでひどく暗い。構内の砂利を踏んで通るのは、急な連絡のため役所から役所へ走る舎人や雑色か、オマルの排泄物を捨てにくる樋洗の下女くらいのものだった。しかし、たまに女官の局に忍んでくる色好みの公達や、友達の女官を訪ね合う女房もいる。守屋が脅そうとするのは、こうした公達や女房たちである。

守屋赤馬は縫いぐるみを注文するのと同時に、彫り師に頼んで鬼の面も作らせていた。頭からすっぽり被る頭巾の前面に、この面を縫いつけておくと本当の鬼に見える。

物陰に隠れていて、通りかかる公達の前に不意に現れる。すると、たいていが、「わっ」と声を上げて逃げ出すのだ。夜暗に紛れるように全身真っ黒な黒鬼に化けていたから、相手には鬼の面がまず目に入るのである。女房たちは、鬼の面を見ると、判で押したようにへなへなとその場に座り込んだ。「腰を抜かす」という言葉は嘘偽りではなかったのである。

鶴丸は、いつも表面に出ないで物陰から守屋を監視していた。「女房に抱きついてはいかんぞ。そんなことをしたら、すぐ、縫いぐるみのニセ鬼だと分かるからな」と釘を刺しておいたけれども、守屋が女にちょっかいを出して騒ぎを起こす危険性があるからだった。

数日もすると、鬼が出るという噂が御所一円に広がった。出入りの商人たちの口から御所の外にも噂が伝わったのである。噂好きの京童の口にかかると、鬼は大鬼と小鬼の二つがいて、大鬼は皇后に取り憑いた狐を調伏した葛木聖人であり、小鬼の方はその弟子の智海だということになった。葛木聖人は皇后に恋いこがれ、絶食して死んで鬼になり、智海も師匠に殉じて死んで鬼になったというのである。

鶴丸の姿が目撃されていたのは意外だったが、鬼が葛木聖人の化身だと噂されているのは、計算通りだった。

宮廷の警備が急に厳しくなった。御所内の篝火は増やされ、警備の役人が昼夜を問わず構内を巡回し、女官たちは夜になると戸に掛け金をかけ寝るようになった。鶴丸は、守屋と相談して、当分、夜の行動を控えることにした。だが、鬼に化ける快感を一度覚えた守屋赤馬には、もう約束を守る気などなかった。

中秋の名月の夜には、清涼殿に百官を集めて月見の宴が開かれる。
その年も満月が空に上がると、天皇以下が清涼殿の廊に出てしばし月を眺めた。それが済むと、一同広間に戻り、にぎやかな宴席になる。灯明に火が一斉に点じられて、室内は昼のように明るくなった。宴がたけなわになったときであった。酒を運んでいた女官が、真っ青な顔になって広間に駆け込んできたのだ。

「鬼が───」
と女官の指さす方向を見ると、向かいの寝殿の屋根に黒鬼が腰掛けて、こちらを黙って眺めている。

酒を酌み交わしていた廷臣たちは総立ちになった。騒ぎを聞いて警護の役人が続々と庭前に集まってくる。だが、鬼は、驚く様子も見せず、騒然となった眼下を無言で眺めていた。屋根の棟にまたがるように座った鬼の、くわっと開いた口や、金色に縁取られた目や、ざんばらな黄色の髪が、警護の役人たちが振りかざす松明のあかりでくっきり浮かび上がっている。

その状況がどれくらい続いたろうか、やがて鬼をめがけて矢が一本、二本と射掛けられ始めた。すると、鬼はようやく立ち上がり、その場の光景を見回してから屋根を伝って姿を消した。

翌日、染殿に出仕してこの話を聞いた鴨継は、帰宅して直ぐ鶴丸を呼びつけた。
「守屋を何とかしなければならんな。このままだと、そのうちに捕まって、何もかも吐いてしまうぞ」
「私も気になって、帰りがけに守屋に会おうとしたら、彼は休みを取っていました。仲間の話では、彼は最近、加茂川べりに小さな家を借りて、そこに女を囲っているとかで・・・・」
「よくそんな金があるな。女というのは商売女か」
「いえ、小商人の妻女だそうです」
「ますます、危ないな。その女に、ぺらぺらしゃべるんじゃないか」
鶴丸が、「私から、きつく叱っておきます」といったが、鴨継はそれに耳を貸さず黙って何か考えていた。

守屋の件をそのままにして、鴨継は話題を変た。こちらの方が、本題だったのである。

「急な話だが、今夜、お后に会いに行ったらどうかな。守屋がいなくても、御所に入ることができるだろう?」
「はい、守屋が、私のために通用口をこしらえてくれています」
「染殿にも、入れるな?」
「大丈夫です」
「では、今日行くんだ。皆がおびえている今が好機だ」

それから、鴨継は、「長居は無用だぞ」と注意した、「お前が鬼の扮装で出て行けば、女どもは震え上がって身動きできなくなる。その間に、几帳の中に入ってお后に頭巾をちょっとだけ脱いでみせるんだな。そして自分が何者であるか明らかにしておいて、おぬしの気持ちを伝えるんだ。いいか、お后の気持ちを動かして、次の日も訪ねて行くことを許してもらうのだ。許可を得たら、すぐに帰ってくるんだ」

鴨継の話を聞いているうちに、鶴丸もその気になってきた。彼の話を聞いていると、そうするしかないという気持ちになるのである。ふと、(オレも、この吹けば飛ぶような貧相な男の人形になってしまったのか)と思った。

夕餉を取り、鴨継を布団に寝かしつけて、屋敷を出る。守屋の作ってくれた通用口から御所の中に入り、護衛の役人の目をさけ、物陰を伝って染殿にたどり着く。樋洗口を抜けて建物の内部に入り、片隅の暗がりに潜んで様子をうかがう。女たちは食事を済ませ、就寝までの一刻を思い思いに過ごしていた。

鶴丸は暗がりから半歩踏みだし、闇を背景に仁王立ちに立っていた。灯明に照らされた部屋の中に踏み込んで行けば、扮装がばれるおそれがあったから、じっと女たちが気のつくまで黙って立っていたのだ。だが、なかなか女たちは気がつかない。ようやく、一人がお喋りの切れ目に何気なく目を上げた。

「あ」と声にならない声を上げたので、話し相手の女も顔を上げた。すぐに、女の目は恐怖でつり上がった。やがて女たちのすべてが黒鬼の存在に気づいた。氷のような沈黙が室内を支配した。

「顔を伏せろ」と鶴丸は言ってから、「動くな」と言い直した。そして、(はじめに「動くな」というべきだったかな)と苦笑いした。彼は落ち着いていた。女たちが恐怖で凝り固まり、声も出せないでいることが分かったからだった。声で正体を知られる恐れもない。面を被ったままで物を言えば、声がくぐもって別人の声のようになるのである。

皇后は几帳のなかで、何か本を読んでいたらしかった。だが、鶴丸が「顔を伏せろ」といって明るみの中に歩み出るのを見て、灯明を消し息をひそめてじっとしていた。

鶴丸が几帳のなかに踏み込むと、皇后は単衣の襟を掻き合わせながら、怯えたように鶴丸を見上げた。広間の明かりは紗に遮られて半減しているので几帳のなかは薄暗く、皇后の顔だけが白く浮かんで見える。その顔に向かって、鶴丸は低く話しかけた。
「怖がらないでください」

鶴丸は面を脱いで、素顔をさらした。皇后の体から緊張が抜けて行くのが分かった。暫くして皇后はなじるように訊ねた。
「どうして、こんなことを───」

鶴丸はその場に腰を下ろした。
「お后さまに会うには、こうした方法しかなかったからです」
「これまで御所を騒がせていたのも、お前かえ」
「そうです。ここへ忍び込む機会を探していたのです」
「馬鹿ねえ。毎日、会っているではないか」

鶴丸は、歯を見せて笑った。
「ご存じないですか。こちらからは、広間が見えますが、向こうからは紗に邪魔されてお后の姿が見えないのです」

皇后は、そうだったというように微笑した。その微笑に勇気づけられて、鶴丸は膝を進める。
「聖人を取り押さえるときに、お后様のお顔を見てから、寝ても覚めてもお顔が私の心から去らないのです」

また、ここへやってくる許しを得るためには、愛の告白を続けなければならない。鶴丸の言葉を皇后は扇を開いて顔を半ば隠しながら、含み笑いをして聞いている。9月とはいえ、蒸し暑い夜だった。縫いぐるみを着ている鶴丸の顔に汗がにじんでくる。

「これで拭きなさい」
皇后が懐から香を薫じた絹の手布を取り出して鶴丸に手渡した。額の汗をぬぐってから返そうととすると、皇后は親しげな口調で、「そなたのあげるから、持って帰りなさい」と言った。

(つづく)