<美貌の皇后(改編版その7)>
翌日、染殿に出仕すると、老女の綾戸と音羽が待ちかねたように鴨継のところにやってきた。二人とも心配そうな顔をしている。なかでも殿中の女たちを束ねる綾戸は、紙のように薄い目蓋を引きつらせ、唇の端をぶるぶる震わせていた。
「昨夜、鬼めがあらわれたのです。しかも、この部屋にですよ。そして几帳のなかに押し入って・・・・・」
そこまで聞くと、鴨継は背後に座っている鶴丸の方を振り返った。
「回診は、お前がやってくれ。体の不調な者がいたら、症状を聞いてくるだけでよい」
回診をなるべく早く切り上げるつもりだったが、何処の館に行っても女たちは一人で現れた鶴丸を珍しがって、彼を離してくれなかった。回診を終えてようやく染殿に戻ってきたときには昼近くになっていた。だが、老女二人はまだ鴨継とひそひそ相談を続けている。鶴丸が回診の結果を報告すると、鴨継はうなずいてからこう言った。
「やはり鬼の正体は、死んだ聖人らしいぞ。鬼から一番憎まれていたのはおぬしだ。気をつけなければならぬ」
それからまた、老女たちの方を向き直った鴨継は、鬼が現れたら先方を刺激しないようにそっとしておくべきだと力説している。鬼は恋慕の情に駆られて、后に会いに来ているだけだから、鬼が几帳の中に入ったら、女たちはそれぞれの局に引き下がり邪魔をしないようにするがよいというのだ。鴨継は、弟子の鶴丸が自由に振る舞えるように横車を押している。だが、鶴丸の目から見てさえも、鴨継の言い分は無理筋だった。
当然、綾戸の方も自説を譲る気配を見せなかった。
「皆に口止めして、秘密が外に漏れないようにすることはお約束できます。でも、鬼を残して全員ここを引き上げてしまうなんて、そんな無責任なことは出来ませんよ」
「さっきから、音羽殿と私が残って見張りをすると申し上げているではないか」
「あなたは、そんな体だし、音羽は女です。せめて、鶴丸殿が見張りに加わってくれれば安心できるのに、あなたは鬼が鶴丸殿を目の敵にしているから駄目だとおっしゃる。それでは話になりませんよ」
二人の問答が容易に終わりそうもないのを見て、音羽が遠慮がちに口を挟んだ。
「お方さまのお考えを伺ったらいかがでしょうか。よろしかったら、私が───」
綾戸が、「いえ、私が聞いてきます」とピシリと言った。綾戸は、音羽が鴨継の肩を持つのを見て腹を立てているのだ。
几帳のなかに入った綾戸は、かなり長く出てこなかった。そして、鴨継と音羽のところに戻って来たときには、その表情は無念そうに歪んでいた。
「鴨継殿の申されるように致しましょう。お后さまは、鬼と二人になっても心配ないと言い張っておられる」
その日、屋敷に戻ってから、鴨継は鶴丸を呼びつけて、懇々と言い含めた。
「わしは夕方になったら、また染殿に参上して、鬼の行動を見張ることになる。くれぐれも言っておくぞ、焦るな、焦って、后に手を出してはならん。ただ、后の美しさを褒めちぎるのだ、そして后への熱い想いを訴え続けるのだ。后にとっては、はじめて聞く男の口説だからな、待っていればそのうちに身も心も許すようになる」
夜になって、鬼の縫いぐるみを着た鶴丸が染殿に現れると、女官たちは目を伏せて部屋を出て行った。鴨継の主張を入れて、綾戸が彼女らに一斉に退出するように命じていたのである。室内には鴨継と音羽だけが残った。見れば、皇后は几帳のなかで灯明を灯して待っている。彼女は昨夜、鶴丸が再訪の許可を求めたときには、いいとも悪いとも言わなかったが、黙って微笑することで、それとなく許しを与えていたのである。
鶴丸が頭巾を脱いで話し始めようとすると、音羽が室内の灯明を消しはじめるのが見えた。鴨継に言われて部屋を暗くしているのだ。これで几帳のなかが蛍籠のように明るく浮かび上がる。外から鶴丸の行動が丸見えになるのである。
鶴丸は、皇后の天女のような美しさを賞賛し始めた。鴨継の説によれば、褒められて喜ばない女はいないはずだった。しかし皇后は、予想に反して、鶴丸の言葉を途中で遮ったのだ。
「私のことは、もうよい。それより、そなたのことを知りたい。そなた、今、いくつになる?」
「20になります」
と答えて、鶴丸は初めて自分の年齢が文徳天皇より更に一歳若いことに思い当たった。
「実家は何をしておる?」
「父は伊賀の国衙に勤める小役人でして・・・・・」
「それで?」と皇后は先を促す。促されるままに鶴丸は、父の伝手で地方の国学に入学したこと、そこでの成績がよかったので京の大学寮に進んだことを説明した。皇后は興味深げに鶴丸の話を聞いている。
「そなたはこれまで、男の学生たちと過ごして来て、女性(にょしょう)のことはよく知らないと思うが───」
「その通りです」
「それで、よく今の仕事がつとまるな」
「多分、図々しのでしょう」
皇后は面白そうに笑った。そして、自分も女だけの世界で生きてきて、輿入れするまで男というものを遠目で見ているだけだったと打ち明けた。父親の藤原良房は、早くから娘の明子を天皇の后にする計画を立てていた。そのためには、文徳天皇が妻をめとる年齢になるまで、明子を独り身で残して置かねばならない。それで、父は彼女のまわりを女の使用人だけで固め、牡猫さえ近づけないほど警戒していたのであった。
そんな会話をつづけているうちに、二人の気分は急速にほぐれて行った。
「鶴丸は楓が好きであろう」と皇后はからかうように言う、「この中で見ていると、そなたがちらちらと楓の方に横目を使うのがよく分かるぞ」
姉が弟を揶揄するような口調である。楓というのは皇后に近侍する女官で、鶴丸は確かに彼女にちょっと惹かれていた。
「楓殿に関心がないといえば、嘘になります。でも、お后をお慕いする気持ちと比べたら天地の違いがあります」
「そんな弁解をせずともよい」と皇后は、なおも揶揄する、「私が二人の間を取り持ってやってもよいぞ」
鶴丸は皇后と時間の経過を忘れて話し込んでいた。皇后の方も、すっかり興に乗っている。鶴丸は、これまでも同性の学友と親しくなったことがあった。ウマが合うというのか、肝胆相照らすというのか、たった一日話しただけで、互いに何もかも許し合う関係になった。皇后への気持ちも同じだった。鶴丸は皇后に強く惹かれながら、気持ちの奥に仲間に対するような、屈託のない、のびのびしたものがあることを感じていた。
深更を過ぎてから鶴丸はようやく、もう引き上げなければならないと思った。同時に自分が鴨継と音羽の存在を全く忘れて話し込んでいたことに気づいた。
その夜、鶴丸が屋敷に戻ってからも、鴨継は帰宅しなかった。音羽の世話を受けて、客殿に泊まったに違いない。翌日、鶴丸が遅くに出仕すると、鴨継は想像していた通り客殿に泊まり、既に午前の回診を済ませて染殿に詰めていた。
「遅くなりまして」
と鶴丸が詫びるのを鴨継は不機嫌な顔で睨み、「あまり調子に乗ってはいかんぞ。昨夜のお前は行き過ぎていた」と注意した。
鶴丸が、分かりましたと低頭し、顔をあげて几帳に目をやった。目をやりながら、いま、皇后はどうしているだろうか、と思った瞬間に、紗の向こうに皇后が見えたのである。賭場で壺の中のサイコロが見えたように、皇后がありありと透視されたのだ。
鶴丸は、どういうときに自分に透視する能力が生まれるか、ずっと考えてきた。
まず、隠れているものを見たいという強い欲求がなければならぬ。しかし、その欲求は、為にする欲求であってはならない。壺の中のサイコロも、儲けを得る目的で透視しようとすると見えないが、そうした目的を意識しないでいると見えるのである。吉と初めて賭場に出かけて、少し儲けたことがある。だが、あのときには金に対する執着はほとんどなく、「無心」に近い心理状態にあったのだった。
彼はこれまで几帳の陰に隠れた皇后を見たいと思っていた。が、歴代の皇后の中で随一の美貌だという皇后の顔を見たいと思い、不純な好奇心を燃やしていたから見えなかったのだ。ところが、今は雑念を捨て、親しい仲間に対するような楽な気持ちで几帳を見た。そしたら、皇后が見えたのである。
皇后は遅くなって出仕した鶴丸が、鴨継に挨拶し、鴨継から小言を言われているのを紗の向こうから眺めていた。すると、鶴丸が顔を上げ、二人の目が合った。皇后がハットしたのは、まともに目の合うはずがないのに、相手がまるで紗がないかのように彼女を見たからだった。彼女はまじまじと鶴丸を見返した。
(つづく)