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「自死という生き方」の効用(2)

2008/3/25(火) 午後 3:20
<「自死という生き方」の効用>(2)

須原一秀は、二〇〇六年四月はじめに「哲学的事業」の一つとして自殺した。時に六五才だった。

彼は、これに先立つ十ヶ月ほど前から日記をつけ始めている。その日記は自殺する半月前まで続いているから、これを読めば死に向かって歩む彼の内面をたどることが出来る。日記によれば、須原一秀はすでに三〇代の終わり頃から、自死について予告していたらしい。親しい友人たちに、「私の人生は六五才までだ」と明言していたというのである。

だが、それは酔余の放言であって、彼が本当に自殺を考え始めたのは、自死決行の一年前からだった。「前年の三月か四月頃に心は決まっていたような気がするが、自分でもそれが本物かどうかわからなかった」と彼は書いている。

彼の気持ちが確定したのは、前年の八月一三日だったと思われる。彼はこの日に自分の決意を親しい友人に伝えたのだ。八月一九日には別の友人に、十月四日にはもう一人の友人に打ち明けている。友人たちは須原一秀の決意を聞いて、戸惑ったりひるんだりしたが、結局、普段の須原の言動を思い返して理解してくれた。

友人たちが彼の自殺を受け入れたことは、その後に自死の覚悟を持続する上で非常に役立ったと須原は書いている。そこで、彼は後に続く同志にこう提言するのである。

「仲間を作るべきである。出来れば数人で一種の共同体を形成し、自死決行の時期や方法について語り合える仲間がいることはとても重要である。・・・・お互い協力して思いを遂げる手伝いをしてやるのである」

前年の十一月四日には、彼は死後に臓器を提供することを決めて、「臓器提供意思表示カード」に署名している。この頃に、彼は「葉隠」からヒントを得て自殺の正当化理論を確立したので、気持ちがすっかり楽になったらしい。「何か新しい遊びを思いついた子供のようにワクワクしている」と書いている。死後に残すために書き始めていた「新葉隠」にも興が乗って、筆は滑るように動いた。

しかし年末頃から少しずつ焦りの気持ちが芽生え始める。そして翌年の三月半ばになると強い焦慮に襲われるようになった。自殺するまでにあと半月しかないのに、遺稿はまだ完成していない。「新葉隠」を完成させることも、重要な「哲学的事業」なのである。

それに彼は、まだ遺書も書いてなかった。それも当然だった。彼はその時期になっても、どこで自殺するのか、どういう方法で自殺するのか決めてなかったのだ。自死するには場所と方法を決め、そのための道具を用意しておかなければならないのに、すべてがまだ手つかずの状態にあったのである。

十二月十八日の日記には、こんな記事がある。気分が落ち込んだとき、思わず、「ああ、死んでしまいたい」とつぶやいてしまって、その後で書いたものである。

「もう三ケ月先には死ぬことが確定している人間でも、こんな姑息な手段で自分の気持ちを救っているということは、『死ぬことを前提に生きてこそ、本当の人生を歩むことができる』などという言い草は怪しいものだと感じてしまった。」

一月六日の日記は、こうなっている。

「大晦日も正月も、いつもどおりで特筆すべきことは何もなかった。いつもどおり年越しソバを自分で打ち、友人と三十一日と三日にマージャンをし、一日には神社参りをした。本当に気持ちの上では何も特別なものはなく、人の出入りが多いせいか、総じてご機嫌よく時が過ぎて行った。」

彼は文科系というより、むしろ体育系の人間だったから、二十代から運動を欠かしたことがなかった。自殺を決めてからも、定期的にスポーツジムに通い、エアロビクスで汗を流していた。運動も好き、社交も好きだった彼は、平生、「自宅にたくさんの人を呼んで宴会をする」ことを楽しみにしていたのだ。

一月二十日には、最終講義に関する記事がある。

「例年のごとく今週で哲学、論理学、倫理学、語学などの科目の最終講義は終わったのだが、三月に私が死んだというニュースを聞けば受講生たちが思い当たることがあるように、少し狙って内容を展開したが、あまりうまくはゆかなかった。」

最後の日記。

「それはそうと、今の私はあまり時間がなくであせっている。片付けなければいけない仕事が重なってきたのである。そのせいで、今までの気分の良さがそがれてしまっている。後進の方々には、期日などにはこだわらないように事態を設計されますようお勧めする。」

そして、いよいよ自殺決行の日が来る。

2006年四月初め、彼はある神社の裏山で、頸動脈を刃物で切り裂いた上で、縊死している。こういう壮絶な自殺を遂げたのは、失敗することを恐れたからだった。

私は初志を貫徹した須原一秀に敬意を表するものだが、多少、気になる点がないでもない。彼はスポーツマンらしく果断に行動した。だが、遺著「新葉隠」の内容は、必ずしも首尾一貫しているとは言い難いのである。

彼は現在非難や憐れみの対象になっている自殺を、人のありうべき死に方として自然に受け入れるような社会、さらには自殺が敬意をもって迎えられる社会の実現を目指していた。彼の主張からすると、自殺は万人の前に開かれた大道であるべきはずなのに、彼は自殺をエリートのみに許される特権だと取られかねない説明をしているのだ。

彼は自殺をするには、5段階の階梯を踏んで行かねばならぬといい、その第一段階に、「人生の全体の高」と「自分自身の高」について納得していることを求める。「人生の高」「自分の高」とは、わかりにくい表現である。しかし、「高」とは、総量・全体容量を意味していると取れば、自殺するための前提は、当人が人生と自己の実質をありのままに受容していることだという意味になる。

人生の何たるかを体得し、自分が過去にしてきたこと、将来なすであろうことを正確に把握した人間のみが自殺出来るというのである。彼の理論の特色は、「自己の実質」の中枢に、これまでどれだけの「極み」を達成してきたかを置いていることだろう。「極み」というのもわかりにくい言葉だが、これは日常生活の中で味わう、かけがいのない幸福感を意味しているらしい。

彼は自身の体験で「極み」を説明する。

「幼児だった子供二人と女房の四人で自宅の風呂に入っていて、息子が娘にふざけてお湯をはねかけていて、それを避けるため娘が私の首にかじり付き、女房が向こうで頭を洗っている」こういう瞬間に感じられる「これ以上のものは、もう何もいらない」という感覚が「極み」だというのである。

須原はこういう「極み」体験をたくさん持っているなら、安んじて自殺することが出来るという。彼が、三島由紀夫・伊丹十三・ソクラテスを一括りにして論じたのも、この三人が「極み」体験を十分に持っていたからだった・・・・

そして彼は自身を三島・伊丹・ソクラテスの域まで引き上げることを意図していると読者に邪推させるほどに、自らの「極み」について語るのである。彼は自分が敗北者として自殺するのではなく、勝利者として自若として死んだことを示したかったかもしれない。

彼は、自分の人生に区切りをつけるために65才で死んだが、それは彼の勤務する大学の定年年齢と関係があるような気もするのだ。

だが、私は、そうした問題にあまり関心がない。私がこだわるのは、「人生の高、自分の高」を知った人間は、自分に執着することを止めて「自分離れ」を起こすのではないかということなのだ。

須原一秀の自殺、あるいは葉隠武士の自殺は、自分の名聞を惜しんでの自殺であり、結局、自分に執着するところから出発した自殺である。だが、真に自分の高を知った人間は、それとは反対の生き方をするのではないか。そして自殺するにしても人を驚かすような壮烈な死に方をする代わりに、静かに餓死することを選ぶのではないか。

(つづく)