甘口辛口

哲学的自殺の先駆

2008/4/4(金) 午後 6:33

(藤村操・華厳の滝・巖頭の感──「日本の百年」筑摩書房より)

<哲学的自殺の先駆>


この一年ばかり、日本人作家の小説や評伝を読んでいて、外国のミステリーにはご無沙汰していた。そこでT・H・クックの作品を読むことにした。彼の作品をひとまとめにして購入した中に、未だ読んでない本が1,2冊あることを思い出したからだった。

(たしか、これは読んでなかったな)と思って、「孤独な鳥がうたうとき」を取り出して読んで見る。そのうちに、(これは確か、悪玉が最後に敗北する話だったな)と思い出した。記憶によれば、この作品に出てくる金貸し稼業の小権力者は、まわりの人間を脅したり、いたぶったりした末に、天罰覿面、最後には惨めな敗北を喫するというストーリーだった筈である。

しかし、その鮮やかな天罰覿面の場面がどうしても思い出せない。それで、結局、ずるずると最後まで読んでしまった。

これが既読の本だったとすると、未読の本はどれだろうと、次に「神の街の殺人」を開いたら、こっちは間違いなくまだ読んでない。それでこれを二日かけて読み終わった。それが一週間ほど前のことだった。

2年足らず以前に読了した「孤独な鳥がうたうとき」の内容を忘れているとしたら、もう新本を買う必要はないなと思った。祖父は、私と同じ年齢の頃、前に読んだことをすっかり忘れているという理由で、一冊の講談全集を繰り返し読んでいたけれど・・・・。

だが、そう思う端から、新たに本を注文してしまう。私は性懲りもなく、インターネットの古書店に山田風太郎の「人間臨終図巻」を注文したのである。私は以前からこの本を読みたくて、3年前にもインターネットを通して書店にこの本を注文している。だが、この時には、先方の書店がつぶれたらしく音信不通だったから、今度、改めて別の書店に注文をし直したのだ。


注文の本が届いたので、包みを開いてみると、「人間臨終図巻」は、上下二冊で、二段組みの浩瀚な本だった。例えば、「55才で死んだ人々」という具合に、死没時の年齢別に内容が区分けして、膨大な数の人物を取り上げている。アイウエオ順に並んだ索引を覗くと、「あ」の項目だけで、愛新覚羅慧生からはじまってアンネ・フランクに至るまで28名の名前が並んでいるのだ。

最初の項から読んでいく。トップは「八百屋お七」となっているが、これは彼女が登場人物中で、一番年少だからである。次のページに、「藤村 操(17才)」の項がある。哲学的自殺の先駆者として、今も記憶されている旧制第一高等学校の生徒だ。

彼は日光華厳の滝に飛び込んで自殺する前に、近くの木の幹を削って、「巖頭の感」という遺言を書き残している。

        
 「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
            
 此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソ
                            
 リチ一に価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す。
             
 日く『不可解』我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至

 る。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。

 始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを」

著者の山田風太郎は、この明治期特有の名文を紹介した後で、当時一高で英語講師をしていた夏目金之助が藤村の自殺を知って動揺したことに触れている。

 この報を聞いて、一高の英語講師夏目金之助は、生徒に、
「君、藤村はどうして死んだのだい?」と、不安そうに尋
ねた。それは、その一週間ほど前、二度も藤村が訳読して
来ないことに夏日講師が立腹して、「勉強する気がないな
ら、もう教室へ出て来なくてもいい」と叱責したことを思
 い出して狼狽したからであった。

著者は更に、後日談として、井上哲次郎が笑い者になった挿話も付け加える。

 この遺書を読んで、東大哲学教授井上哲次郎は、「ホ
 レーショの哲学などたいしたものではない」といって、笑
 いものになった。ホレーショとは『ハムレット』中に出て
 来るハムレットの友人の名だからであった。
             
藤村 操の自殺が、いかに人口に膾炙していたかは、旧制中学一年生の私たちに、矢島という生物の教師が授業中にこの話を持ち出したことでも分かる。矢島先生は白髪頭のロートル教員だったが、よく冗談を言ったり、おどけたりして私たちを笑わせてくれた。あの頃を思い出すと、みんな何と無邪気だったことかと思う。中学一年の男の子ときたら、誰も彼も、小学生のように無邪気で天真爛漫だったのだ。それが、二年、三年と進むに連れて、急速にワルになって行ったのである。

「お前たち、藤村操って知っているか。華厳の滝に飛び込んで、どんぶらこと死んじまったんだ(ここで私たちは、ワッと笑う)。藤村はな、『人生不可解』といって死んだんだぞ。まだ20にもならんうちに、人生が分かってたまるかってんだ(ここで私たちは、又ワッと笑った)」

私は初めて、「巌頭の感」を目にしたとき、青年客気の文だと思って無視していた。意味がありそうなのは、末尾の二行に過ぎない。しかし、今は、その「既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを」という末尾二行に注目するようになった。この部分には、ある種の真実が込められているかもしれないのだ。彼は本当に不安を突き抜けて「安心」に到達したのかもしれない。そして、その気持ちを彼は、「大いなる悲観は大いなる楽観に一致する」と表現したのかもしれないのである。

餓死については、難波大助の父親の話が載っている。

難波大助は皇太子時代の昭和天皇をステッキ銃で狙撃した犯人である。この難波大助は山口県周防村の大地主の息子に生まれたが、優秀な兄二人に比べて学業は見劣りしていた。そのため、県会議員をしていた父作之進は、大助に対して苛酷な態度を取り、兄たちとは差別して扱っていたらしい。だから、彼は父の前に出ると萎縮して、おどおどしていた。

その大助が上京して何度かの受験に失敗した後、早稲田大学の第一高等学院に入学するに及んで性格が一変するのである。彼は左翼思想の洗礼を受けて、テロリストを目指すようになった。

以前に羊のようにおとなしかった大助が、虎のように居丈高になり、父や兄を脅迫してふてぶてしく金をせびるようになった。そして実家にあったステッキ銃を持ち出し、摂政皇太子が貴族院開院式に臨席するため自動車で通過するのを途中で待ちうけて鉄砲を撃ちかけたのである。私はステッキに見せかけた鉄砲など実用に供しうるか疑問に思っていたが、今度、人間臨終図巻を読んで、それが空気銃の一種だと知ってようやく納得した。彼は車窓10センチのところから発射したというけれども、空気銃だから大した被害を与えることはできなかった。窓ガラスに穴を開けたに過ぎなかった。

しかし、事件が国民に与えたショックは大きかった。日本中が文字通り震撼したのである。山本内閣は総辞職し、山口県周防村の村民は、大助の実家を見れば目が汚れると周りに高い土手を築いたといわれる。父の作之進は門に青竹を打ち、すべての戸を針金でくくって三畳間に閉じこもり、餓死した(といわれている)。

その他、人間臨終図巻を読んでいて、印象に残ったのは石川啄木の死に方だった。

啄木が結核のため喀血して寝付くと、看病していた妻も結核になり、やむを得ず炊事万端を老母が代行することになった。その老母も結核になるのだ。病気と貧乏のどん底で、家族の諍いが絶えなくなった。いたたまれなくなった老父は、家を出て姿をくらましてしまう。

元旦に啄木は老母と妻に向かって、「元旦だというのに、笑い声一つしないのは、うちばかりだろうな」といった。

その年の1月21日、夏目漱石夫人に命じられて森田草平が病気見舞いだと言って10円を届けに来た。啄木は、その日の日記に、「私は全く恐縮した。夏目さんの奥さんには、お目にかかったこともないのである」と書いた。

まだ読み始めたばかりだが、人間臨終図巻には、こうした話が満載されていて、「巻を置くあたわず」という気持ちになる。伊藤整の「文壇史」に匹敵する面白さがある。