<「人間臨終図巻」の人々(2)>
魯迅の項を読んでいて感心するのは、彼にはいささかも売名行為がなかったことである。彼はノーベル賞を辞退しているし、自叙伝を書こうともしなかった。
「私は自叙伝を書くつもりはないし、誰かに書いてもらいたくもない。私の生涯にはとりたてて語るようなことは何もない。私の伝記程度のものなら中国では四億も集まるだろう」
そして家族には常々、こう言い含めていた。
「私の葬式には、人から金銭を受け取るな。お前たちは、私のことなど早く忘れて、それぞれ自分の生活の道を歩め」
しかし烈々たる闘志は最後まで失わなかった。彼は、遺書にこう書いている。
「キリスト教徒は臨終ですべてを許すそうだが、私には敵が多い。私を恨むなら勝手に恨め。こちらも誰一人許しはせぬ」
私は以前に触れたように、「餓死」の問題に関心を持っている。それで、人間臨終図巻のなかのこれに関連した人物の項を特に注意して読んだ。たとえば、ゴーゴリや内田魯庵の項である。
宇野浩二全集を購入したときも、彼の書いたゴーゴリの評伝を興味深く読んだものだった。宇野浩二はトルストイやドストエフスキーよりもゴーゴリを愛していたから彼の評伝を書いたのだが、私も学生時代に森田草平の訳で「死せる魂」を読んで以来、ゴーゴリのファンになっていたのである。
ゴーゴリは、「鼻」「検察官」「外套」など多量の毒を含んだ作品を発表して注目され、30才で大作「死せる魂」に取りかかった。宇野の本によると、ゴーゴリはこの作品を三部に分け、第一部では人間の持つあらゆる醜悪を摘発し、第二部でその醜悪さに苦悩する人間を描き、最後の第三部で理想的な人間を描こうとしていたそうである。
ところが、ゴーゴリは第一部を発表し、第二部をほぼ完成した段階になって、突然、自身に対する疑惑に取り付かれる。彼は強い罪悪感に襲われて、ペンが全く進まなくなったのである。彼は友人に宛てて、嘆きの手紙を書いている──「私の創作力は全く衰えた。一枚どころか一行がやっとだ。人は40才でこんな老人になるものだろうか」
人間臨終図巻では、彼の絶食死に絡まる事情を次のように書いている。
「ある夜、彼は跪いて熱心に祈ったあと、蝋燭を手にして十字を
切り、自分の『死せる魂』第二部の原稿を暖炉に投げこみ、
その蝋燭で火をつけた。召使いはその重大さに驚き、泣き
ながらとめたが、ゴーゴリは『お前とは関係ない。お前も
神に祈れ』といって、十字を切って召使いに接吻した。そ
して、長椅子につっ伏して、声をあげて泣き出した。
彼がなぜこういう行為に出たかは、永遠の謎である。
しかし彼は、その翌朝トルストイにいった。『何という
悪魔の力強さだろう。僕が死後の記念として残そうと思っ
た原稿を、あいつが焼いてしまったよ』
この日から彼は一切の飲食を拒絶した。終日寝巻を着て、
足を机の上にのせて坐ったきり、ほとんど人を近づけなか
った。
牧師が来て、食事や薬を勧めてもゴーゴリはとり合わず
ついに医者が呼ばれて、強制的に頭部に氷嚢をつけたまま
風呂にいれたり、はては手足をおさえつけて蛭を吸いつか
せたり、芥子泥をぬりつけたりした。
二月十六日の夜十時過ぎに衰弱し、狂乱状態になった
ゴーゴリは、『梯子を! 梯子を』と、意味不明の言葉
をさけんだ。それが彼の最後の言葉となった。あくる日の
朝八時頃、彼は絶命した」
(注:文中に出てくるトルストイは文豪のトルストイとは別人)
宇野浩二の評伝によると、絶食期間は2月11日から2月21日で、絶命するまでに10日を要したことになる。相当頑固な人間でないと、断食して死ぬという芸当は出来ないらしいのだ。
内田魯庵は明治期に活躍した批評家兼翻訳家で、日本に初めて「罪と罰」を紹介した人物である。彼は、臨終の四五日前に、自分でも、もうとてもダメだと観念して、食物も薬も一切拒否するようになった。両手で唇をふさぎ、口に何も入れさせなかった。夫人が言葉を尽くして勧めると、ようやく少しばかりの薬を口に入れるが、すぐ吐き出してしまう。「こんな役に立たない体になって、おめおめ長く生きているのは、皆に気の毒だ」という諦観から出発した覚悟の上の行動だった。
自発的な餓死ではなく、懲罰で餓死させられた者もある。コルベ神父は、そうした人間の一人だった。
コルベ神父は、昭和5年に来日して日本国内で布教に当たっていたけれども、第二次世界大戦の直前に故国のポーランドに呼び戻されて修道院長になった。だが、それも束の間、彼はボーランドに侵攻してきたドイツ軍に捕らえられてアウシュビッツ収容所に送られる。
収容所で一人の脱走者が出たため、ドイツ軍は懲罰のため数十人のポーランド人を無作為に選んで「飢餓刑室」に放り込んだ。コルベ神父はその選に入っていなかったが、選ばれた囚人の身代わりに自分を処刑してほしいと申し出て、囚人一名の命を助けている。
強制的な絶食二週間後には、囚人たちはコルベ神父一人を残して皆餓死した。収容所長は癇癪を起こして、神父に毒薬を注射して殺してしまう。
人間臨終図巻上巻の最後の方に、伊藤整が取り上げられている。伊藤整の病状については、以前にこのブログで触れているので、それを補完する意味で人間臨終図巻の記事を引用することにした。その前にブログの記事を再録する。
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「年譜によると、伊藤整は昭和44年、64歳の春先から体調を崩し、血便などの兆候を見せ始めたらしい。だが、彼は文芸春秋社の文化講演会講師として四国へ旅行している。これが悪かったらしく、以後急激に病状が悪化し、5月6日に神田同和病院に入院することになった。
病院での最初の診断は、慢性腸閉塞症ということだったが、入院一週間後に開腹手術をしてみると胃ガンの末期であることが判明した。胃ガンのため腹膜炎を起こしていて、これが腸閉塞の症状をもたらしていたのである。既に成人していた長男と次男は、担当の医師と相談して、このことを本人と他の家族には秘密にしておくことにした。
・・・・・ガンを恐れ、ガンを嫌悪していた伊藤整は、それ故に医者や息子の言葉にコロリとだまされた。彼は、癌研付属病院に移されてからも、まだ自分がガンであることに半信半疑でいた。
・・・・・気分のいいときには、彼は病気が治ったら、利根川沿いの港町に隠棲する夢を描き、古い大きな農家を探しておいてくれと人に頼んだりしている。だが、時折、強い不安に襲われることもあった。藤枝静男は、伊藤整の態度には儒教武士的な面影があると書いているけれども、彼は病床でしばしば涙を流している。
入院一週間後には、早くも次のような文章が見える。
『十一時眼が覚めて朝五時まで眠れず。輾転反側す。時々流涕して幼時を思う』
9月になると病状は深刻になり、一晩中、嘔吐を繰り返して眠れないようになった。この間、妻も眠らずに夫を介護していたが、そんな最中に彼は死についての自分の覚悟を妻にいろいろ語っている」
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人間臨終図巻の著者は、伊藤整が気分のいいときには、早朝病院の近くを散歩したと書いている。著者は、伊藤整が妻や看護婦の同行を拒み、時には道ばたにしゃがみ込んだりしながら一人で歩いたことを記しながら、「穏やかな相貌のしたに、伊藤整は強い意志を持つ人間だった」と賞賛するのである。
しかし、最後の時が迫った。医師から臨終の近いことを知らされた妻は、あちこちに電話をかけた。見舞客が続々と駆けつけたが、伊藤は誰にも会いたくないと言って、独りで苦しみ抜く。夕方、彼は主治医に、もつれた北海道弁で懇願する。
「先生、もう死ンしてくンさい」
しかし、数時間して九時頃に、
「死にたくないなア」
三十分後の九時半頃に、もう一度、「死にたくないなア」といった。
何時も無口な主治医が、伊藤の絶命後、「よく我慢して下さった」とつぶやいた。
夏目漱石は、「死にたくない」といって亡くなったというけれども、伊藤整の最後はこれを思わせる死に方をしたのである。