<ビックダディーの右往左往(2)>
昼休みに買い物に出かけた林下は、顔見知りの男に声をかけられ、タクシーで元妻のマンションに連れて行かれる。作品では、相手の男が元妻の身内としか説明されていないが、前後関係からすると母親の血筋に連なるヤクザ系の人間と思われる。マンションに着いた林下は、台所の板の間に正座させられる。
姿を現した元妻の「通代」は、「清志、お願いだからまた、一緒にくらしてぇ!」と懇願する。傍らから男も、「清志・・通代が可愛そうだと思わないんか」と言葉を添える。
ここは謝るしかないと彼は観念して、「本当に、すいません・・」と頭を下げると、男は近くの椅子を激しく蹴飛ばした。
「清志よ、お前一度は通代にヨリ戻すって言ったんだろ、え?」
男は、俎板の上にあった包丁を取り上げて林下の額をなぶるようにつつく。すると、傷は浅かったが、血が盛大に流れるのだ。
「やめてぇな」と通代は包丁を持った男を制止してから、「清志、な、もう一度一緒に暮らそ」と言う、「また一緒に暮らすって言ってくれたじゃない」
押し問答は何時果てるともなく続き、夕方になった。保育園に預けてある子供たちを迎えに行く時間である。だが、それは通代の母親がやってくれていた。連中は周到な準備を整えて、ここに乗り込んできたのだ。
14時間が経過し、翌日の午前3時になって、林下はついに屈服した。
「解りました。解りましたから、帰らせて下さい」
「ありがとう、ありがとう・・」とうれしそうに言って、通代はタオルを手渡してくれた、「清志、顔を洗ってきな・・」
タオルを受け取って、一人で洗面所に入る。鏡に向かうと、額から流れた血が固まって剥がれかけている。ドアの向こうから、女が「清志、大丈夫?」と声をかける。途端に、林下の目から口惜し涙が溢れてきた。彼の心にある決意が芽生え始める。冷たい水で顔を洗っているうちに、その決意は揺るぎ無いものになった。
女のマンションを出た彼は、タクシーに乗り自宅の少し手前でクルマを降りた。自宅の前には通代の母親が立っていた。
「終わったらしいなぁ、子供はよう寝てるでぇ」と母親は愛想よく声をかける、「あんたも疲れたやろ、早よ寝ぇな」
──林下は、男と交わした約束を破る決意を固めたのだった。彼が約束を破って復縁を拒めば、相手は激怒して何をするか分からない。その相手をなだめる方法は一つしかなかった。ヤクザの仕法に従って指を詰めるのである。
林下は、小指を電話帳の上にのせ、右手に持った包丁を思いっきり振りおろし、指先を切断している。整体師をしている彼にとって、指は大事な商売道具だったが、女との復縁を拒むにはそれしか方法がなかったのだ。
この「私小説」を読んだあとで、TVを見ると、成る程、彼はカメラで左手を映されることを避けている。テレビカメラが彼の左側に回ってくると、林下は手をズボンのポケットに入れてしまうのである。
林下の創作を読み、彼と通代の過去を知れば、すべてが理解されてくるのだ、林下は、なぜ通代の求める復縁話を拒むのか、それだけでなく彼はなぜ一刻も早く彼女を島から追い出そうとしたのか。彼がこの「私小説」で通代に対して苛酷過ぎる書き方をしているのも、たびたび通代に煮え湯を飲まされて来たからなのだ。
彼は指を詰めるという犠牲を払って、ようやく通代と縁を切ることに成功した。簡単に復縁出来るはずはなかったのである。
通代は、いったんは奄美大島から追い出されたが、本土に戻ると仕事を辞め、退路を断って再び彼の前に姿を現した。すると、林下は、ぼやきながら彼女を受け入れてしまう。このへんが彼の人のよさであり(彼は友人の借金の連帯保証人になって大損をしている)、通代がつけ込み得る弱点なのだった。
通代は、三つ子と一緒に四男四女と同居をはじめたものの、すぐに居心地の悪さを感じ始める。子供たちの母を見る目は、他人を見るように冷たいのだ。通代を慕ってくのは、彼女が家を出たとき未だ赤ん坊だった二人の女の子だけだった。
年上の子供たちは、自分勝手な母親の行状をずっと見ていたのである。夜中にふと子供が目を覚ますと、母が一人でボリボリ菓子を食べている。母と目が合うと、「人が物を食べてるのを見るんじゃあないの!早く寝なさい」と叱られていたのだ。だから、子供たちは彼らだけになると彼女のことを、「あの人」「あのババア」「お母ちゃんのバケモノ」などと呼んでいたのだった。
通代が三つ子を連れて名瀬市で暮らすことを考えはじめた頃、林下も総勢13人の家族を自分の腕一本で養うことに困難を感じ、通代が名瀬市に移って就職してくれれば助かると考え出していた。林下と通代は、誘い合わせて名瀬市に出かけ、手頃な物件を探すことになる。
こうして状況は大きく変わっていく。林下は名瀬市に整体院の分院を開き、ここに通代と三つ子、それに高校の寄宿舎に入っている長女が住むことになった。暫くすると、通代らがアパートを借りて分院を出て行ったから、林下は三カ所を巡回するのが日課になった。大棚部落の本拠からバイクに乗って30キロ離れた名瀬市の分院に飛び、治療を済ませてから、通代と長女のアパートに回るのである。タフを誇る林下も、再び四男三女の待つ大棚部落に戻って来る頃には心身共に疲労困憊していた。
林下清志が通代に同居することを提案したのは、「三重生活」を少しでも簡素化したいからだった。通代が大棚部落に戻って家事を見てくれれば、彼は整体師の仕事に専念できる。そうなれば、長女はまた寄宿舎に戻らなければならないし、通代も仕事を辞めなければならない。だが、それを承知で、彼はあえて同居を提案したのだった。
実は、この頃、林下清志と通代はよりを戻していた。一線を越えまいと自戒していた林下の忍耐が破れ、二人は名瀬市に来てから夫婦の関係になっていたのだった。そうなると、通代への執着が再燃し、女の男関係も気になり出していたのだ。
だが、通代は林下の提案を拒否した。彼女は居心地の悪い大棚の家に戻る気はなかった。長女に三つ子の面倒を見させ、少人数でアパートで暮らす方が、ずっと気楽なのだ。
こうして平成20年の新年になり、TVの「ビックダディー」シリーズもいよいよ本年度の林下家の状況を取り上げることになる。(さて、今年の林下家はどうなっているのか)と、チャンネルを合わせた視聴者は、林下と通代の激しい口喧嘩を見せられて呆然とするのだ。
事は、正月、通代がためらいながら、林下に話があると切り出すところから始まる。
「何だよ、早くいえよ」とせき立てられても、通代はなかなか本題に入らない。そして、ためらった末にようやく勇を鼓して、「あのさア」と話し始めるのだ。
「あのさア、赤ちゃんがさア、出来たみたいなんだわ」
TVのナレーションによると、この瞬間、室内に氷のような沈黙が流れたそうである。
林下は、この時には特に何も言わなかった。だが、その後、彼は折あるごとに出産の問題を持ち出して通代と言い争うようになるのである。
TVカメラは、出産をめぐる二人の応酬を延々と映し続ける。しかし興奮してまくしたてる林下の言い分なるものが矛盾していて、一向に要領を得ないのだ。彼はしきりに三つ子を生んだとき、通代が脳浮腫になり三日間昏睡していたことを持ち出す。そして、こういう前歴を持ちながら出産に踏み切るのは、危険この上ないと警告する。そして、「お前は子供を産んで死んでも、満足かもしれない。だが、残された子供たちはどうなるのだ」と通代を責め立てる。彼の意図は明らかだった。通代に中絶を勧めているのである。
相手に中絶を促しておきながら、林下はそれとは裏腹なことも言い出す。通代に向かって、なぜ堂々と信念を持って「生みます」と宣言しないのだというのだ。彼は相手が中絶することを望みながらも、通代に子供を産めと言っている。身ごもった子供は中絶すべきでないという持論の手前、彼はこういわざるを得ないのである。
林下の言葉は、内面の動揺を物語るかのように行きつ戻りつするが、通代の態度にブレはない。赤ん坊を生むのは既に決めたことだから変更する気はないと言い、12番目の子供を出産しても、自分が死ぬことはないと、これも既定の事実のように言い張る。なぜ出産しても危険がないのか、その理由を一切説明することなしに、ただ「私が死ぬことはない」と繰り返すのである。
林下の言うことが矛盾だらけなら、通代の言うことも説明抜き、論証抜きで筋が通らない。二人の問答は空転するばかりだった。
膠着した局面を打開する為に、林下の執った手段は子供たちを味方にすることだった。
(つづく)