<光市母子殺人事件の報道スタイル>
4月22日の光市母子殺人事件を報道する番組を一切見なかった。
TVがどういう報道をするか、最初から見当がついていたからだ。前々から指摘してきたけれども、被害者の夫である本村さんが犯人の死刑を望むのには、誰も異議を唱えはしない、だが、マスコミがこぞって被害者家族に同調するようなことをしてはならないのだ。上記の写真は、今日の新聞に載っていた週刊文春の広告だが、人権派弁護士をまるで罪人のように扱っている。
今、マスコミを賑わしている聖火リレー問題を考えればすぐ分かることだ。北京五輪を成功させたいと考えている中国人の立場からすれば、聖火リレーを妨害する世界各地の人権運動家の行動は我慢がならないに違いない。そこで愛国的な中国人は現地に乗り込んで人権運動家に対抗して示威運動を繰り広げる。こういう中国人の行動を誰も非難することは出来ない。
だが、マスコミが中国人の愛国的行動を支持するかといえば、そんなことはない。中国人の行動は「愛国心」からのものだが、人権運動家は普遍的正義を実現するために行動しているからだ。つまり、マスコミは個別的な事情に同情はするけれども、それが普遍的な条件に合致しなければ全面的に支持することはないのである。
光市母子殺人事件については、二つの観点がある。犯人の死刑を望む被害者家族に共鳴する立場と、死刑制度には原則反対する立場・最近の司法当局による厳罰主義に批判的な立場だ。個別事情を重視すれば、犯人の死刑を望むことになるし、普遍的条件を重視すれば、死刑に疑問を呈することになる。
欧米など先進国のマスコミは、被害者家族が犯人の死刑を望むのは当然としながらも、そういう家族の感情に同調することなく、それとは別の観点から冷静に主張を展開する。
映画監督森達也が新聞に書いている文章によると、判決当日のワイドショウはこんな調子で結果を知らせていたらしい。
<僕は自宅でニュースを見てい
た。判決は予想通り死刑。その
後はワイドショー。
「もっと早く死刑判決を出して
いれば、本村さんもこれほどに
つらい思いはしなかっただろう
に」と女性コメンテーターが言
う。
「本村さんの胸のうちを思うと
言葉がないですね」。別のゲス
トのコメントに、司会者は深く
うなずいている。>
次の日のワイドショーを見ていたら、ここでもテレビによく出る大沢弁護士が口を極めて本村さんを褒め称えている。日本人は、よほど死刑の好きな民族らしい。
しかし私は、本村さんの今後について、人ごとではない懸念を感じるのである。
彼は、9年間、テレビに向かって犯人を死刑にせよと訴え続けて、ついに死刑判決を勝ち取った。最高裁でも、死刑判決は追認されるに違いないから、犯人が死刑になったら、彼はある意味で犯人に死をもたらした殺人者になるのである。この事実を、彼は一生背負って行かねばならない。50,60になったとき、彼は果たして心穏やかに過去を追想できるだろうか。
アメリカでは、被害者の家族に犯人の処刑される現場をガラス越しに見せている。それで家族の感情は満足されるかといえば、その反対だという。報復感情を満たした後に、それとは別の暗い感情が出現してきて、家族は前よりもっと苦しむことになるそうである。
まして、犯人は公判廷でこう語っているのだ(フリージャーナリスト綿井健陽による)。
<亡くなられた二人のこと
を思うと、生きたいとは言えま
せん。ただよければ生かしてい
ただきたいのです。すみません>
また、弁護士と接見した際には、次のように語っている。
<何度も自殺したいと思った。
死にきれなかったけど。僕が
やったことは少年事件なのに、
少年として扱われていない。ま
た、大人なのかというと、大人
としても扱われていない。僕は
人間の道を外れたことをしでか
したから、人間として扱って
もらえないことも仕方ないけ
ど>
犯人の父親は家庭内暴力の常習者で、犯人は小学生の頃からその暴力にさらされ、同じ暴力を受けていた母親は当人が中学一年の時自殺している。事件後に息子に面会に来た父親の第一声は、『死ね』というものだった。
本村さんは、今のところ、犯人の言葉に耳を傾ける気持ちを持っていないし、手元に郵送されてきている犯人の謝罪の手紙を開封する気持ちにもならないだろう。だが、いかに自分をごまかしていても、犯人の哀れな生育環境や、彼の獄中の言葉について思いめぐらす日がきっとやってくる。
そして、検察の主張する「計画的な犯行説」の誤りにも、気がつかざるを得なくなるだろう。森達也はこう言っている。
<もしも計画的な犯行なら、自
分の家族が暮らす家の近所を標
的にするだろうか。
就職したばかりの水道設備工事会社のネ
ーム入り制服を着たそのままで
犯行に及ぶだろうか。
何よりもそれまで女性体験がまったく
ない少年が、いきなりレイプ
と殺害とを計画して、さらに
は遂行できるものなのだろう
か。>
わが国のマスコミは、世論に追随して人類普遍の観点を見落としてしまうことが多い。カントは、仰げば仰ぐほど畏敬の念を起こさせるのは、満天の星と内なる道徳律だと言っている。人間の内部に広がる宇宙のように広大な道徳律とは、人間尊重の普遍的意識のことなのだ。そして、その中核をなすものは人権感覚なのである。
家族愛も愛国心も、この普遍的意識の内部に正しく位置づけられなければならない。人間尊重・人権擁護の方が上位概念なのである。