甘口辛口

人生の転換点

2008/4/26(土) 午後 0:17

(船橋聖一の著書と肖像)

<人生の転換点>


人間は一本調子に生きて生涯を終えるのではなく、人生の後半に至って、それまでの生き方を反転させることが多い。

山田風太郎の「人間臨終図巻」下巻(65才以後に死んだ人物を取り上げている)は、読後感が上巻とは全く異なる。上巻で取り上げられている人物の生き方が、良いにしろ悪いにしろ明快な感じを与えるのに対し、下巻の人物たちの生き方は総じて混濁し崩れた印象を与える。これは、65才以上になれば人生の転換点を経過して複雑な生き方をするようになるからだろう。

こうなれば、若い頃の、この道一筋というような明快な姿勢は崩れ、曖昧でヌエ的な動きを示すようになるが、実はこのことによって私たちは救われているのである。その証拠に、年を取っても、以前と変わらぬ生き方をする者に救いがたい「俗物」が多く見られる。若い頃のエゴ・セントリックな生き方が、加齢と共にいよいよ強化されるためだ。例えば、船橋聖一である。

船橋聖一は、戦後に活躍した有名作家で代表作に「花の生涯」がある。だが、彼はそれよりも、「雪夫人絵図」などのエロティックな作品の著者として、また妻妾同居の生活を実践した人物として広く世に知られていた。

その彼が昭和30年代の終わり頃から、毎年11月が近づくとイライラするようになった。芸術院会員の発表があるからだった。彼は当然自分の名前があるはずだと思っていたのに、毎年、ライバルや後輩の作家に先を越されていたのである。

彼がライバル視していた作家は、丹羽文雄だった。彼の「花の生涯」と丹羽の「蛇と鳩」が野間賞の候補になり、僅かの差で敗れてからというもの彼は丹羽を憎むこと甚だしく、丹羽文雄の作品が話題になるとたちまち機嫌が悪くなった。それで、彼の前では丹羽の名前が禁句になったという。

勲章好きの船橋は、昭和50年秋、やっと文化功労賞をもらうことになったが、弟妹たちが祝いの品を届けなかったことに腹を立て、弟を呼びつけて、「弟妹たち合わせて百万円を持ってこい」と怒号した。この弟は、「兄は煩悩の塊といってもよい人だった」と語っている。

こういう唯我独尊的な人間は、見え透いたインチキに引っかかりやすい。眼病を患った彼は、医者に不信の念を抱き、あれこれ担当医を取り替えた末に藪医者に引っかかって、その処方した薬を点眼した。そのため、彼は片目を失明している。

長い作家歴を持つ久保田万太郎も、俗臭紛々たる人物だった。

彼は最初の妻を自身の女狂いのために自殺させ、二人目の妻も盛大な喧嘩の後に離別している。一人息子とは、親子断絶の状態で先立たれて身辺は孤立無援となったが、60を過ぎてから初めて気に入った三番目の愛人を得た。だが、その愛人も帰りの遅い久保田を寒風の中で待っていたため急死してしまった。

新劇の世界でボスとして君臨していた彼は、信頼する弟子からも、次のように批判されている。

<なまじな世才をめったやたらに振り廻し、不義理不人情のそしりには、不貞腐れで押し通し、『寂しい、寂しい』と鼻水たらして、巷を右往左往している、我執のかたまりみたいな稚い老人>

だが、船橋聖一も久保田万太郎も、ある意味では小物なのである。芸術家の中には、もっと巨大な俗物がいくらでもいるのだ。日本画壇の巨匠、横山大観もその一人だった。

一日一升の酒を欠かさなかった豪快な横山大観は、若い頃の反逆精神を失って加齢と共に次第に俗化していった。そして、嬉々として帝室技芸員や芸術院会員になり、金モールの大礼服を着て写真を撮らせてよろこぶところまで堕落した。

<そして次第に国粋的になってゆく風潮の日本美術界の
総帥的存在となり、ために敗戦直後(敗戦の年、彼は七
十七になっていた)戦犯に指定されるという風評におび
えて、進駐軍の関係将校を料亭に招いて接待するという狼
狽ぶりを示した。
    
晩年の大観は、孫娘たちから見ても、意地わる爺さんで
あったという。生活費をもらいにゆくと、聞くにたえない
厭味をいい、大観夫人がひそかに金をやるのを警戒して、
金のはいっている箪笥の前に坐って動かなかった>

著者はこう記してから、横山大観を「俗と超俗の矛盾した大塊であった」と書いている。

日本画壇の巨匠が横山大観なら、音楽の世界の巨匠は山田耕筰だった。彼は77才になったとき、「墓無用論」という随筆を書いた。

「人間は誕生の産湯を使うときは真っ裸だから、死ぬときも、一物もまとわぬ清浄な姿で墓に入れぬか。・・・・(死んだら)その骨と灰は庭のすみへでもまくという程度の葬式は無理かしら」

こう書いた山田耕筰の葬式には、5000人の会葬者が集まり、近衛秀麿の指揮の下、耕筰の作品が次々に演奏された。しかし、彼の息子も娘も葬式には姿を現さなかった。彼の一番目の妻は、山田耕筰のことを「残酷で、浮気で破廉恥で、彼の人間性はゼロです」と言い捨てている。

サマセット・モームは、「月と六ペンス」「人間の絆」で世界的なベルトセラー作家になった。彼がそれらの作品で表現しようとしたのは、あらゆる人間の絆から脱して自由になろうとする彼自身の痛切な願いだった。

だが、名声と巨万の富を得、十一人の召使いにかしずかれて南仏リヴィエラの宏壮な邸宅ヴィラ・モーレスクに暮しながら、晩年のモームは絶望と、ほとんど狂気の人であった。

「あなたの一番幸福な思い出は何ですか」と問われたとき、彼は、「そんな思い出はいっときもなかったな」と答えた。そして、「私は一生を通じて失敗者だった。間違いにつづく間違いだらけの人生だった」と語っている。

モームは、晩年、収集してきた夥しい絵画をすべて売り払ってしまった。その売上代金の一部を要求して娘が訴訟を起こすと、彼は彼女を廃嫡にした。

晩年のモームの言葉は、すべて痛ましいものばかりである。

「一行も書かなければよかったのだ。私を知っただれもか
れも、最後には私を憎むようになった。しかし今となって
は何もかもあとの祭りだ」

 また彼は告白した。「私は四分の一、正常で、四分の三、
同性愛者だった。ところが私は全然逆だと思いこもうとし
た。それが私の最大のまちがいだった」

サマセット・モームは、こういう苦い思いを噛みしめながら、なかなか死ぬことが出来ず91才まで生きたのだった。

人間は、ある時期を過ぎれば「自分離れ」をおこし、おのれの人生を他人事のように眺めはじめる。そして虚栄の舞台から退場し、競争社会から降り、醒めた目で現世を眺めるようになる。さもなければ、人は晩年俗物となって、暗澹たる末期を迎えなければならない。その点は、大物も小物も変わりないのである。