<尾崎秀実の手記>
ゾルゲ事件について少し調べてみようと思った。
逮捕後のゾルゲと尾崎秀実の姿勢に、大きな違いがあると知ったからだった。ゾルゲは逮捕されてからも信念を変えず、処刑される時も、「赤軍万歳、ソ連共産党万歳」と叫んで死んでいったが、尾崎秀実はくるりと180度転向して、にわか仕立ての日本主義者になり、おとなしく罪を懺悔しつつ死んでいる。ゾルゲは獄中で尾崎の転向を知っても、少しも怒らなかった。それどころか彼は尾崎に同情さえしていた。二人の人間としての器を比べてみると、残念ながら、ゾルゲの方にやや歩があると思われたのだ。それで私は、両者の差がどこから来ているのか調べようと思ったのである。今から50年前の話だった。
私はまず、その頃出版された「みすず書房」の「現代史資料」二冊(ゾルゲ事件1、2)を購入して、尾崎秀実の手記から読み始めた。同書には手記が二つ掲載されていたが、そのうちの一つを読んだだけで、早くも私は先を読む気がしなくなったのだ。尾崎秀実の手記が、左翼から右翼に転向した世の変節者の手記と同質の、極めて薄手のものに思われたからだ。
尾崎は、誇り高い男だった。彼はゾルゲに協力してスパイ活動をしながら、謝礼を全く受け取っていない。彼はジャーナリズムの寵児だった自分を「予言者」「警世家」と規定し、ペン一本で日本を正しい方向にリードしているという自負を抱いていた。だから、獄中から家族に出す手紙にも、つい夜郎自大の気配をにじませてしまうのだ。
<この頃あまり気持ちが澄みきってしまって、いわば生死を超越しきってしまったために、いろいろな現実的な考慮や、執着が薄らいで来たような感があるのは困ったものだと思っています>
<凡そ人が刑につく場合に三つの態度があるのではないかと思ふ。第一には恰も屠所に牽かれる羊の如く全く打ちのめされた態度、第二には慨然として憤慨死に就くの態度、第三には全く生死を超越し平静水の如き態度で死に就く場合であらう。
僕はこの冬手記を書いた時分には既に生死の問題は考へ抜いて漸く第三の段階に達し得たのだとひそかに確信してゐた>
手紙のなかにある、「現在到達した、相当深い、高い心境」というような自画自賛の言葉を読むと、彼の心理が透けて見えてくるのだ。
尾崎は恐らく、心証を良くしようと考えて裁判長や検事にあてて上申書という形で、この二種類の手記を書いた。そのなかで彼が皇国思想に目覚めたことを強調するのはいいとして、その際、つい警世家としての過剰な自負から自らの到達した皇国日本への還帰を絶対無謬な真理として断定してしまう。そして自身が歌いあげた言葉に自分で酔い、一種の自己暗示にかかって止めどもなく偏向していってしまったのである。
私は、尾崎の手記を読んだ後で、ゾルゲの手記を読み、両者を比較する積もりだったが、そんな気持ちはすっかりなくなり、現代史資料を書架の片隅に押し込んでしまった。
その私が五〇年ぶりに再び現代史資料を読む気になったのは、WOWOWで「スパイ・ゾルゲ」という映画を見たからだった。この映画は、篠田正浩の監督作品としては出来が悪く、ゾルゲに扮する外人俳優が大根役者なら、尾崎秀実に扮する本木雅弘も大根で、その上、事件の背景を説明するためにスターリン、昭和天皇、近衛文麿、東条英機、杉山元まで登場させたために印象が散漫になり、単に事件の輪郭を説明するだけの映画になってしまっていた。
だが、この映画を見たことで、私はほこりをかぶっていた現代史資料(ゾルゲ事件2)を取り出して、もう一度尾崎秀実の手記を読む気になったのである。昔読んだページを開くと、色鉛筆で傍線を引いてある箇所があった。彼が時代をどう読んでいたかを示す部分である。
<近来私の世男情勢判断の中心点をなして来たものは第二次世界戦
争が不可避であるといふ点でありました。列強の盲目的な帝国主義
角逐はその矛盾を結局大規模な戦争によって解決せんと試みざるを
得ないであろう。
しかもそれはその規模の深刻さによって列強自身
の存在を根底から危くする如きものであるだらうと見たのであり、
この際列強の混戦に超然たる地位を占めるであらうソ聯の存在はそ
の後に来るべき新状態を決定するに重要な地歩を占めるであらうと
想像したのであります。>
尾崎は日中戦争の頃から、やがて世界戦争がはじまると見越していた。その戦争は日・独・伊の枢軸側と英米を中心とする旧体制側による全面戦争で、結局、枢軸側の敗北に終わると予想していたのだ。この全面戦争に際して、ソ連は局外中立を守って戦後の混乱の収拾にあたり、その過程で世界を共産主義化するのに成功するというのが彼の結論だった。
ゾルゲも同じような見方をしていたが、実はこれは第二次世界大戦前夜におけるコミンテルンの「砕氷船理論」に基づく時局観だったのである。インターネットで、砕氷船理論の項を調べると、こう書いてある。
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1935年(大東亜戦争開戦の6年前)、モスクワで開かれた第七回コミンテルン大会でスターリンが再確認した。
「ドイツと日本を暴走させよ!しかし、その矛先を祖国ロシアに向けさせてはならぬ。ドイツの矛先はフランスと英国へ、日本の矛先は蒋介石の中国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。日、独の敗北は必至である。そこで、ドイツと日本が荒らしまわって荒廃した地域、つまり、日独砕氷船が割って歩いた後と、疲弊した日・独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ」
つまり、日本とドイツを他の国と負ける戦争をさせ、その後ソ連が両国を属国にするよう仕向けさせた。これはその後忠実に実行され、最後の一行以外は全て現実のものとなった。
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コミンテルンは、資本主義国家を世界戦争でつぶし合いをさせれば、最後にソ連が漁夫の利を得ることになると考えていた。ゾルゲと尾崎の役割は、この戦略に従ってソ連のために情報を収集し、巨大な渦に巻き込まれるように戦争に向かってつき進みつつある世界の動きを一層加速させることだった。
尾崎秀実は太平洋戦争勃発の直前、昭和16年10月15日に逮捕された。手記によれば、この時の彼の心境はかなり古めかしいものだった。
<私自身はやがていつの日かに鉄槌を下されるものとひそかに予想
してゐたのでぁります。
検挙後目黒警察署の留置場内にゐること半月日々峻烈な取調べを
受け、やがて十一月一日より西巣鴨の東京拘置所に送られましたが、
当時の心境は寧ろ極めて平静でありました。
「自己の信ず,るところに従って行動し、今や一切は終った」とい
ふが如きものでありました。
封建的な時代であれば反国家的政治犯として直ちに車裂きか獄
門にかけられ、問題はそれで永久に終ったのでありませう。>
尾崎にとって予想外だったのは、「肉親の恩愛の情」が巨大な圧力になって彼を押しつぶしたことだった。彼は一切の私情を切り捨て、死刑を覚悟してスパイ活動をしていたはずだった。しかし、現実に獄中で妻から来た手紙を読むとたえがたい苦痛を感じ、差し入れの中に入っていた娘の写真を正視することができなかった。
<日頃はあまり考へることの無かった父親の存在も大きな重荷となり
ました。既に老年に達し、今では一種の社会教育者として、熱心な
皇道主義者として或る程度社会的評価を得てゐる父親の立場こそま
ことに惨めなものに思はれました。(父親は新聞記者の後年以来夜
学の私立中学の経営に当つてをり、今は引退しましたが、教育功労
者として表彰されたこともあります。)>
(つづく)