(尾崎秀実)
<尾崎秀実の手記(その2)>
尾崎秀実はスパイ活動を行っていた頃の信念を、こう述べている。
<我々左翼主義者は・・・・・コミンテルンの指導下に世界的ソビエット連邦の完成を目指すことを以て理想となしたのであります>
尾崎は、世界各国が国家的エゴイズムによる戦争で共倒れになった後に、初めて世界連邦が実現すると考えていた。だが、彼は逮捕された後で、これはコスモポリタン的な迷妄に過ぎないと考えるようになる。そして、その迷妄に気づかせてくれたのは家族への愛だったというのである。彼は書いている。
< 顧るに、私の多年の国際主義の迷夢を打破
して、宙に浮いてゐた足を本来の国土の上に就けることに役立った
ものは、家庭への愛情、家族との意外にも強い目に見えざるつなが
りでありました。>
戦前の共産党員たちも、逮捕され拷問されたあとで、大体これと同じ趣旨の告白をして転向している。しかし、そこには飛躍があるのだ。家族愛に目覚めた結果、当人の内部に生じる変化とは、実際運動から手を引き家族のもとに帰るということであって、マルクス主義そのものを否定することではないはずである。マルクス主義の持つ影響力は甚大で、一度、その洗礼を受けると以後世界認識の枠組みが一変する。
だから、獄中で家族愛に目覚めた党員が考えることは、これからは党の「かくれ信者」になってひっそり生きていこうということであって、マルクス主義を捨てることではない。もはや意識の底に焼き付いて離れない世界認識の方法を捨てることなど不可能なのだ。
にもかかわらず、当局に対して転向を誓う党員たちは、その証し(あかし)としてマルクス主義の誤りに気づいたと懺悔する。自分の言葉に飛躍と嘘があることを承知で、「迷夢」から覚めたと告白するのだ。これは、「隠れ切支丹」が心を鬼にしてイエス像を足で踏んで見せるのと同じ行為であり、当局も党員がこの踏み絵を実行すれば程なく留置場から釈放してくれるのである。
だから尾崎秀実が、上申書に「多年の国際主義の迷夢」から覚めたと書き込むだけだったら、共産党員の多くが実行してきた転向の定式を実行したまでだと聞き流すことが出来る。しかし、彼はもう一段も二段も飛躍して、天皇制下の国家体制を擁護するところまで行ってしまうのだ。
尾崎は、太平洋戦争がはじまり、日本軍の予想以上の頑張りを見て自分の信念の誤りに気づいたと上申書に書いている。
彼は逮捕される以前に、日米戦争は必至であり、戦争が始まれば日本は半年で守勢に転じると予想していた。資源不足の日本は、戦争を続けるには東アジア、東南アジアから戦略物資を輸入しなければならないが、アメリカの潜水艦がそれらの輸送ルートを封鎖すれば、日本は一遍に参ってしまうと考えていたのだ。
しかし、彼は日本軍の赫々たる戦果を獄中で知って、「重大なる観測の錯誤を自認せざるを得なくなった」という。
彼は、どうして間違った予想をしてしまったかと自問して、いざとなれば日本国民が異常なほどに一致団結することを見落としていたからだと考える。そして、日本人が一致団結するのは日本の戦争目的に絶対的な正しさがあるためだというのである。逮捕される以前に、わが国の帝国主義的侵略政策を厳しく批判してきた尾崎が、今や恥ずかし気もなく「わが国の戦争目標の絶対的な正しさが、日本の勝利の推進者となっている」と言い出したのだ。
尾崎はかって攻撃した内閣の政策についても、「赫々たる戦果に照応しつつ外地の経営が進められ、国内の戦時的統制はまことに手際よく着々推し進められ・・・・」と、べた褒めに褒めたたえる。戦前の日本人が自国を礼賛するとき、何時でも天皇制賛美が終着点になるのだが、尾崎秀実も国粋主義者と歩調をそろえて日本の国体を手放しで謳歌するのである。
<私は大東亜戦争の奇跡を実現し得たものは、実に万邦無比なる我が国体そのものの力に他ならないとの結論に到達したのであります>
<大詔渙発せられるや俄然、またもや例の歴史的奇跡が更に一段の見事さをもって再現せられたのでありました>
これまで、尾崎は資本主義国家が互いにつぶし合いを始めてくれれば、「世界的ソビエット連邦」の実現が早まると考えていた。とすれば、日本が簡単に負けてしまっては困るのである。アメリカと死闘を演じ、共倒れになってくれるなら、願ってもない展開になる。尾崎は彼にとって望ましい展開になってきたにもかかわらず、これを逆に解釈して、日本の善戦によって自分の「迷夢」は覚まされたと当局に告げる。
獄中のゾルゲは死を覚悟していた。それでいて彼は、世界の歴史が自分の望んでいるような方向に着々と進んでいることに満足していた。尾崎も心の底では、ゾルゲと同様、自身の予想が的中したことに満足しながらも、当局に迎合して自らの不明を恥じてみせるのだ。彼は妻子のことを考えて、何とか死刑を免れたいと思い、未だ完全に解消されずに残っていた「愛国心」を利用して官憲に阿諛する理論を展開したのだった。
尾崎の父は、皇道教育を推進する愛国者で、国から教育功労者として表彰されていた。息子の尾崎秀実は、世界連邦のためには日本国家の滅亡を当然視する非愛国者だった。その尾崎が、自己の転向を立証するため、太平洋戦争緒戦の勝利から受けた高揚感を酵母菌にして侵略戦争賛美の作文を書いているのである。書いているうちに彼は自らの文章に酔い、自己暗示にかかって、とめどもなく偏向しはじめたのであった。
私は、「尾崎秀実の手記(一)」を読んでいて、追いつめられた彼に同情を感じはした。しかし、尾崎の書いた国体賛美の文章をこれ以上読まされるのはゴメンだという気持ちも強くなって、彼の手記を採録した現代史資料をしまい込んでしまった。
──「尾崎秀実の手記(二)」は、尾崎が死刑判決を受けた後に書かれたもので、これには「第一審の判決に直ちに服せず、敢えて上告を申し立てた理由」が述べられている。
<遂に許され難いならば謹んで命に服するのみであります。若しまた
万一宏大なる皇恩によつて生きることを許されるならば、生れ代っ
た一個赤誠の臣子として全身の血の最後の一滴までも新なる国家の
進運に向つて捧げたいものと秘かに念じて居る次第なのであります。>
ほかにも、「生きる限り生きて国家の運命を祈り続けることこそ正しい行き方だと思われます」という文字もあり、手記(二)は一見して助命嘆願の上申書のように見える。だが、他方、嘆願が却下されたときの覚悟についての論述もあり、かなり複雑な内容になっている。
死生観に関する章は、こんなふうに書き起こされている。
<昨年(注:昭和18年)9月はじめ公判廷に於いて平松検事が私に死刑を求刑せられた瞬間こそは、私の生涯に於いて一紀元を画した刹那でありました。・・・・この瞬間に私の生命の全過程──生涯のはじめ更に最後の日までをさっと見通した如き感じがしました。或いは更に父母未生以前の過去から、悠久なる億劫の未来に亘る生命の流転する姿を直視したかに覚えました>
これに続けて彼は、死生をめぐって動揺した自己の内面を告白している。逮捕された直後は、ただ一途にすぐさま死にたいと思っていたが、やがて生き続けることが正当なことのように思われてきて、「国恩の広大無辺なことによって生きることが許される如き錯覚」を抱くようになった。そして、今ようやく死を平静に迎える心境にたどり着くことが出来たと明言する。
その平静な心境が何によってもたらされたかといえば、「実に、悠久なる君国の大義に生きる信念に到達し得たからであります」と彼はいうのだが、こんなことを聞かされると、私たちは(ホントかいな)と首をひねりたくなるのだ。
<併し乍ら、あれ程も深く私の心を捕へ、また悩ましたこの妻子の
存在すらも、もはや私を捕へることは出来ません。私は既に更に
一層広大にして底深い、国家の悠久な生命の中に一切を挙げて没
入し去ったからであります。社会的忘我より家庭的没我へ、更
に終局的に国家的無我へ到って私の心は終局的に安らぐことを得た
のでありました。
私が如何にして、また何故に現在の如き平らかな、しかも喜びを
すら感じつつある心境に到達したかといふ、以上の道行きを何とか
して、せめて家族のものなりへとも伝へたいものといふのが今の私
の最終の念願であります。
此の頃私は極めて楽しい気持ちで朝を迎へます。さうして陽の光
りや、空の色を泌々と眺めることは先に述べましたが、近来は係の
役人や、同囚の雑役、その他の人々に対して前には覚えなかった懐
しみを覚えてゐます。それ等の人々の親切が身に泌みて感ぜられま
す。>
こういう心境に到達することが出来た理由として、「この国家と天皇陛下とに御赦しを身を投げ出して乞うことの出来た結果だと信じております」と書かねばならなかった尾崎秀実に、私は心から同情する。しかし・・・・・